滄浪閣 (6 画像)
かつて大磯は「別荘銀座」と呼ばれていた。陸奥宗光、大隈重信、鍋島直大、西園寺公望など、その名を歴史に刻んだ明治の元勲たちの別荘が軒を連ねていた。彼らが大磯に集まった理由は、当時の首相であった伊藤博文の館「滄浪閣」があったからにほかならない。
伊藤は1890(明治23)年、小田原に別荘「滄浪閣」を建てる。その6年後、大磯で再建したものがこれである。小田原へ行く途中、たびたび滞在した大磯の風土が気に入り、また、病身の妻の療養を考えた上でのことだったといわれている。明治30年には本籍をも大磯に移す手続きを済ませた伊藤は、自ら役場に趣き、大磯の住民になるからには十分に尽力するから町のことなら遠慮なくいえ、などと話したというエピソードも「萬朝報」は伝えている。こうして「滄浪閣」は大磯で別邸から本邸となった。
時代を牛耳っていた伊藤だが、その建物自体は思いのほか簡素な造りである。和室2室、洋室3室と、和洋折衷の寄棟造。伊藤の死後、1921(大正10)年に朝鮮王家の李垠(いうん)殿下に譲渡、関東大震災直後に再建されたこともあり、その外観などは変化した。それでも伊藤が居間としていた「松の間」や、書斎として利用した「牡丹の間」は今も当時の雰囲気を伝えている。英国風にまとめられた洋間にあるステンドグラスは、「花」「葡萄」「鳥」と、3室とも違うテーマでデザインされた凝りようである、明治後期、伊藤がひと声かけると、町内の別邸に住む大臣たちがこの洋間に集まり、閣議が開かれていたという。こぢんまりとした洋間だが、ここで国の行方が決められたのである。
また、明治天皇から伊藤への下賜品である「源義家御三年の役」「靜御前の舞」など、美術史上価値のある絵襖も現存。気前の良かった伊藤は、こうした下賜品の一部を公共施設などに還元したこともしばしばであった。地元の漁師に気さくに話しかけるなど、庶民的な一面も見せ、逆に町民からは「テイショウ」と呼ばれ、親しまれていたという。
戦後はプリンスホテルの所有に帰しレストランとして利用されてきたが、2007年に売却され、現在は個人の所有となっており、一般に公開されていない。

神奈川県中郡大磯町西小磯85

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