大隈重信別邸 (10 画像)
大隈重信は、1838(天保9)年、佐賀藩士信保の長男として生まれる。7歳で藩校「弘道館」に入門するが、藩校の朱子学に基づく葉穏主義に不満を抱き19歳で蘭学に転じ、やがてその教官となる。次いで長崎において英語の習得に励むが、その時のオランダ人教師フルベッキのもとでアメリカ憲法と独立宣言の精神である「自由と権利」の思想に触れたことが、政治家への志を固めるきっかけとなった。
明治になって上京し、明治政府に出仕する。外交問題、財政畑を担当し、1873(明治6)年、大蔵卿、参議となる。順調に重責を担うポストに就いた大隈は、1881(明治14)年、国会早期開設や政党内閣制を主張。この急進的意見に、漸進主義をとる伊藤博文らは反発し、御前会議で大隈を罷免するという挙に出た。大久保利通亡き後の権力闘争、「明治14年の政変」である。開拓使官有物払下げの件で薩摩の黒田清隆を大隈が弾劾し、中止に追い込んだことへの意趣返しでもあったことが推測される。政界からの退場を余儀なくされた大隈最大の試練だった。だが、在野中の翌年、東京専門学校(後の早稲田大学)開校、尾崎行雄や犬養毅と立憲改進党創設と、大隈の意気は衰えない。やがて政界に復帰し各内閣の要職を務めるが、黒田内閣で外相にあった1889(明治2)年10月18日、大隈は爆弾テロに遭い、右足切断という重傷を負った。外国人判事の任用を認める大隈の条約改正案を非難する国権論者、玄洋社の来島恒喜の仕業であった。
今日、大隈の最も大きな政治的功績として挙げられるのは、1898(明治31)年、日本最初の政党内閣である隈板内閣を組織したことであろう。わずか4ヵ月で内閣は倒れたが、薩長の政権のたらいまわしから、ようやく一歩を脱したことになる。
大隈が大磯に別邸を構えたのは、記念すべき明治31年の前年であった。一枚板のヒノキを使った贅沢な廊下を進むと、大隈が書斎に使った9畳の和室がある。使われた材の多くが神代杉(半化石化した杉)だったことから、「神代の間」と呼ばれている。当時は北側に暖炉があった。また、16畳の「富士の間」と隣の10畳をつなげて、よく大宴会を開いたという。陽気で開放的な大隈は客が大好きで、東京で最初に構えた築地の本邸には多種多彩の人々が群れ集い談論風発し、「築地の梁山泊」と称されるほどであったという。天候の悪い日などは「今日は入りが少ないな」と寂しがったという。ここ、大磯でも同様の光景が繰り広げられていたことであろう。
こんな大隈の一面は、母・三井子に影響されていたようだ。12歳の時に父を亡くした大隈は、母一人の手で育てられる。度量が広く、人づきあいが好きな母。幼少期の大隈はガキ大将だったようで、自宅には友達が盛んに訪ねて来た。三井子はそんな小さな来客をも喜び、手料理をもてなしたという。
また、「おおらかであること」という母の教えも守った大隈は、滅多なことがない限り、怒声をあげなかった。怒りを静める秘訣として、「まず好きな風呂に入る。それでも静まらない時は酒を飲む。なおだめな時は寝てしまう」と言っていたという。当時、別邸の風呂場は離れで、敷地の中でいちばん海岸に近いところに造られていた。
大磯の大磯別邸は、陸奥宗光別邸に隣接している。犬猿の仲であった2人の屋敷が並んでいるのは妙な感じだが、大隈がここを入手したのと陸奥の死去は同年なので、2人が顔を合わせることはなかっただろう。この2つの邸宅は、明治34年に陸奥宗光の次男の古河潤吉が購入し、現在は古河電工の所有となっており、一般には公開されていない。
また、実際大隈は湘南よりも小田原の別荘に頻繁に通ったともいわれている。ドイツ人の気象学者に依頼し、気球を使い、3年もの年月をかけて各地の気候を調査した結果、どこよりも住みやすいのが小田原だと大隈は判断した。すでに持っていた1軒に加え、明治40年には国府津に2軒目を建てている。湘南に建てた10年後のことである。これには、湘南別邸のすぐ近所に、明治14年の政変で対立した伊藤博文邸が存在したことも、無関係とは言い難いだろう。
また、大隈の湘南別荘の隣には、佐賀藩主鍋島直大の別邸があった。大隈家は代々鍋島家の家臣という家柄であり、故郷佐賀を早くに飛び出した大隈だが、母の教え、家の教えは、心のどこかに深く刻まれていたのかもしれない。
先進的でジャーナリズムからも好意的に扱われた大隈の人気は高く、1873(大正11)年、日比谷公園で行われた国民葬には30万人が参列して別れを告げた。

神奈川県中郡大磯町東小磯285

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