落合石畳遊歩道 (24 画像)
この石畳は、中山道の宿場落合と馬籠との間にある十曲峠の坂道を歩きやすいように石を敷き並べたものである。江戸時代の主な街道は一里塚をつくり並木を多く植え、制度化しその保護にたえず注意を払ったが、石畳については何も考えていた様子がない。そのため壊れたまま放置されることが多く、ここの石畳も一時は荒れるにまかせていた。平成17年2月、この場所から旧長野県境までの約120m間を、中津川市恵北地区6町村と長野県山口村の合併記念事業により、従来から「中山道落合の石畳」として保存していた石畳(3ヶ所延長70.8m)をつなぎながら約840mを落合石畳遊歩道(新茶屋遊歩道)として整備した。いま往時の姿をとどめているのは、ここと東海道の箱根の二つにすぎず、貴重な史跡である。
中山道ができたのは寛永年間であるが、石畳が敷かれたのはいつ頃か不明である。文久元年皇女和宮の通行と明治天皇行幸のとき修理したが、このとき石畳に砂をまいて馬がすべらないようにしたことが記録に残っている。

●中山道
中山道は江戸幕府が管轄する基幹道路であった五街道の一つであり、東海道と共に江戸と京都・大阪を結ぶ最も重要な道路で、その距離は江戸の日本橋から京の三条大橋まで135里24町8間(約532km)あった。
この道は、中部山岳地帯を通り難所が多い一方で、川留めになる河川も少なく渡海の難もないため、姫宮の通行のほとんどが中山道を利用していた。
また、中山道には、参勤交代や西国諸大名を支配するための「政治の道」。江戸と上方を結び物流や情報が行き交った「経済の道」、絵画や俳諧などを育み街道文化が華やいだ「文化の道」など、さまざまな側面があった。
中津川市内には約20kmの中山道が東西に延び、江戸から数えて43番目の馬籠、44番目の落合、45番目の中津川の3つの宿場町があった。中山道67宿の全てが整備されたのは17世紀の終わり頃とされているが、市内の宿場はそれぞれ新たに造られた宿駅ではなく、江戸幕府が成立する以前に宿の形態(村落)がすでに整えられていた。

●馬籠宿
木曽11宿の最南端に位置する馬籠宿は、町並みが3町33間(約386m)ある、中山道内でも珍しい傾斜地に設置された宿場町である。度重なる火災により往時の建物はほとんど残っていないが、道筋や建物の建つ地割は当時と変わっていない。島崎藤村の生家である馬籠宿本陣は、その遺構や隠居所が岐阜県史跡に指定されている。

●落合宿
落合宿は信濃国から美濃国へ入る最初の宿場町で、宿の長さは3町35間(約390m)、宿内は下町、中町、上町、横町に分かれ、家数は約70戸ほどだった。
新茶屋から落合の石畳を経た落合宿までの道筋(約2475m)と、新茶屋の一里塚、落合宿の常夜燈、代々井口家が戸主を務めた落合宿本陣は、国史跡「中山道」の構成要素となっている。

●中津川宿
中津川宿の町並みは10町7間(約1.1km)、戸数175戸、人数は980人だった。
宿内は、町並みの中央を流れる四ツ目川をはさんで、大きく本陣、脇本陣、問屋がある本町と、商家が多い新町に分かれていた。
皇女和宮が降嫁のため江戸へ向かう際に、中津川宿本陣へ宿泊した。また、幕末に桂小五郎などにより長州藩が尊王攘夷へ方針転換した「中津川会議」の舞台(桂小五郎隠れ家跡)でもある。

・岐阜県中津川市馬籠
公式ホームページ

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