藤村記念館 (23 画像)
昭和22年、「文豪藤村を顕彰するものを造りたい」と考えた馬籠の青壮年により、ふるさと友の会が結成され、勤労奉仕により藤村堂が建つ。25年、「わたくしたち藤村と血縁あるもの、あるいは郷土を同じくするものは、藤村の生涯の所産が、わが国の文化財として久遠の生命を保つのみでは満足することができない。ここに同志相寄って藤村出生の地を撰び、人間藤村の生涯の記念となるものを保存して、後代の人々のために計る」目的をもって財団法人藤村記念郷が設立された。昭和27年、藤村の長男楠雄から約5,000点に及ぶ資料の寄贈を受け、長野県内の小、中、高校生、教員より寄付を受け藤村文庫(展示室)が完成、藤村記念館として開館し、その後作家・詩人の文学館設立の先駆けとなる。島崎藤村の研究、普及活動を続け、現在に至る。

●島崎藤村
1872(明治5)年3月25日(旧暦2月17日)中山道馬籠宿の旧本陣に生まれた。明治14年遊学のため上京し、泰明小学校を経て明治学院に学ぶ。卒業後、「女学雑誌」に翻訳・エッセイを起稿しはじめ、明治25年、北村透谷の評論「厭世詩家と女性」に感動し、翌年1月、雑誌「文学界」の創刊に参加、明治女学校・東北学院教師を経て、明治30年第一詩集「若葉集」を刊行し、近代日本浪漫主義の代表詩人としてその文学的第一歩を踏み出した。「一葉舟」「夏草」と続刊、明治32年函館出身の冬子と結婚、長野県小諸義塾に赴任、第四詩集「落梅集」を刊行、「千曲川旅情のうた」「椰子の実」などは一世紀を越えた今も歌いつがれている。
詩人として出発した藤村は徐々に散文に移行。明治38年に上京、翌年「破戒」を自費出版、筆一本の小説家に転身した。続けて透谷らとの交友を題材にした「春」、二大旧家の没落を描いた「家」などを出版、日本の自然主義文学を代表する作家となる。明治43年、4人の幼い子供を残し妻死去。大正2年に渡仏、第一次世界大戦に遭遇し帰国。童話集「幼きものに」、小説「桜の実の熟する時」「新生」「嵐」、紀行文集「仏蘭西だより」「海へ」などを発表。
昭和3年川越出身の加藤静子と再婚。昭和4年より10年まで「中央公論」に、父をモデルとして明治維新前後を描いた長編小説「夜明け前」を連載、歴史小説として高い評価を受ける。昭和10年初代日本ペンクラブ会長に就任、翌年日本代表として南米アルゼンチンで開催された国際ペンクラブ大会に出席。1943(昭和18)年、大磯町自宅で、「東方の門」執筆中に倒れ、8月22日71歳で逝去。

・岐阜県中津川市馬籠4256-1
公式ホームページ

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