山村代官屋敷 (37 画像)
山村氏は鎌倉幕府の大学頭大江匡衡(ただひら)一族の流れを祖とし、木曽義元の食客となったことにはじまり、木曽氏の重臣として活躍した。後に、関ヶ原に向かう徳川秀忠の先陣を承って活躍し、勝利を得たことから木曽谷の徳川直轄支配をまかされる木曽代官となり、以後明治2年に至る274年間、木曽11宿をふくむ木曽谷を支配し、四大関所の一つ福島関所を守っていた。途中尾張藩に属し石高7500石に白木5000駄を給付され、福島関所
の関守として幕府から旗本の一種、交替寄合の待遇を許されていた。
その屋敷は島崎藤村の「夜明け前」に活写されている通り豪壮を極めたものだった。文政11年の絵図によると福島小学校を含む敷地に庭園が20あった。
現存するのは当時の御下屋敷の一部で、1723年に再建された12代良祺(たかのり)の書斎「看雨山房」の書院づくりの座敷を中心とした「城陽亭」と、木曽官が竹を借景とした築山泉水式の庭園、本邸の石垣の一部である。

●木曽文学発祥の地
山村代官家は「木曽考」を著した6代良景(たかかげ)をはじめ代々進歩的な好学の士が続き、家臣からも多くの文学の士を出している。その影響は木曽11宿の上層階級の町人たちにも波及し、俳諧、和歌などの庶民文化も生まれた。なかでも蘇門と号し、「清音楼集」「忘形集」を著した9代良由(たかよし)は広く天下の学者と交遊し、上杉鷹山、細井平洲、渡辺方壺(ほうこ)、石作駒石(いしづくりくせき)などとともに木曽の漢文学の黄金時代を築いた。島崎藤村の「夜明け前」にも名君として登場している。その後も、風兆と号した10代良喬(たかてる)は俳諧をよくし、城陽と号した良祺は「樵唱集」「木曽名跡志」「木曽考続貂(こうぞくちょう)」等を著すなど、木曽文学に果たした役割は非常に大きなものであった。

・長野県木曽郡木曽町福島大手町5808-1
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