睡足軒の森 (11 画像)
睡足軒の森は、国指定天然記念物平林寺境内林の一部であり、9379㎡を有する緑豊かな景勝の地である。
このあたりは江戸時代に、上野国高崎藩松平右京大夫家が飛び地として野火止・北野・菅沢・西堀・大和田の5か村を支配していたとき、高崎藩の野火止陣屋がおかれていたところで、現在も陣屋という地名が残されている。
近代になって、「日本の電力王」の異名を持ち、実業界で活躍する一方で、茶道にも造詣の深かった昭和の大茶人・松永安左エ門(耳庵)の所有地となった。
近代の三茶人(益田鈍翁、原三渓)、松永耳庵)と称された松永は、横浜三渓園で有名な原富太郎(三渓)の世話により、昭和13年に飛騨高山付近の田舎家をこの地に移築した。これを草庵として、親しい友人を招き、「田舎家の茶」を楽しみながら囲炉裏を囲んで団欒する日々を愉しんでいた。
その後、昭和47年に屋敷地が菩提寺である平林寺に譲られた。平林寺は、その草葺の田舎家を、多少の手直しを加えて、寮舎「睡足軒」として利用していた。
近年、睡足軒は無住状態が続いたが、平成14年5月29日に睡足軒とその敷地が平林寺から新座市に無償貸与され、公開されることとなった。

●松永安左エ門
松永安左エ門は、明治8年長崎県壱岐に生まれた。明治22年に慶応義塾に入学し、福沢諭吉・桃介の薫陶を受け実業界に進んだ。福博電気軌道(株)の設立に加わり、九州電気取締役、大正10年には関西電気副社長に就任するなど、電気事業経営に参画した。その後、東邦電力などのトップマネジメントとして、新機軸をつぎつぎと打ち出し、「電力の鬼」と呼ばれるようになった。
新座市にあるサンケン電気株式会社の前身である東邦産業研究所の創始者でもある。
昭和4年、55歳のとき、柳瀬村(現・所沢市)の広大な敷地に柳瀬山荘を築いた。中心的建夫の出ある黄林閣は、柳窪(現・東京都東久留米市)にあった旧名主・村野家の住宅であり、保存も良く江戸時代後期の高度な建築技術を伝えており、国の重要文化財に指定されている。現在では、松永の寄贈を受けた東京国立博物館が管理している。
最期の数寄茶人といわれる松永耳庵は、昭和46年6月16日神奈川県小田原市板橋で永眠、95歳の生涯を閉じた。自らが傾倒する石室善玖の開山である平林寺に葬られたが、遺志により葬儀・法要は一切執り行われず、法号もなかった。

埼玉県新座市野火止1-20
公式ホームページ

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