乃木神社・旧乃木邸 (61 画像)
旧乃木邸は、1902(明治35)年に新築されたもので、乃木希典大将夫妻が1912(大正元)年9月13日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って殉死するまでここに住んでいた。希典がドイツ留学中に見たフランス軍隊の建物を模範にして建てたというもので、明治期の洋風建築が接客を目的とする豪華な建物か、和風住宅に洋風の応接室を付属させたものが多いのに比べこの邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られている。建坪は168㎡、木造平家建、日本瓦葺で、傾斜地を巧みに利用し、建物全体に半地下構造を持つ。
馬小屋は、平家建、日本瓦葺で、邸宅が新築される以前、明治22(1889)年に建てられた。間口約12.5m、奥行約4.5mの細長い建物には、四つに区画された馬房や、馬糧庫等がある。住居が木造であるのに対し、馬小屋が煉瓦造で立派だ、という評判のあったもので、馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれる。
命日の9月13日と前日の12日のみ公開される。

乃木将軍は言うまでもなく日清、日露の両役に武功輝き又高風清節徳望高き人格者として一世の崇敬をうけた。
陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵に叙せられ晩年明治天皇の思召によって学習院長に任ぜられ、専ら華胄子弟の薫育に盡したが大正元年9月13日明治天皇御大葬の当日64才を一期として殉死し静子夫人も共に自刃した。
将軍の殉死せらるるや遺言として自邸を東京市に寄附せられた。時の東京市長男爵阪谷芳郎は中央乃木会を設立してその旧邸を保存し、また隣接に乃木神社も建立した。
将軍は嘉永2年11月11日麻布日ヶ窪の長府藩主毛利候邸に於て生れ(少年乃木無人所載年譜)安政5年11月将軍10才の砌り一家と共に長門国長府に移った。幼名を無人とよび慶応2年6月18才の折文蔵と改名した。明治2年11月21才の時藩命により佛式練兵教習のため伏見御親兵営に入隊しその後東京市河東練兵場後親兵練武掛を命ぜられ又豊浦藩陸軍練兵教官として鎮台兵の教育に盡したが明治4年11月23才の時に陸軍少佐に任ぜられ名を希典と改めた。
明治8年27才の時熊本鎮台歩兵第14聠隊長心得となり同10年には西南の役に従軍4月22日中佐に任ぜられた。
将軍の父希次は同年10月東京に於て病没した。
翌年11年1月26日熊本鎮台参謀を免ぜられて歩兵第11聠隊長となり、8月27日薩摩藩士湯地定之の四女静子と結婚したが夫人は時に20才であった。
当時将軍は、芝桜川町に住んでいた(山路愛山著・乃木将軍)。
翌明治12年8月28日長男勝典が生れ11月に新坂町55番地に初めて邸宅を設けたのである。
同13年4月大佐に進み翌14年12月次男保典が出生した。その後ドイツ留学、日清、日露両役に従軍、英国皇帝の戴冠式参列等の事があり、その間、那須別邸に自適されたこともあったが本邸は依然としてこの地に在り、明治12年以来34年間に及んだ。
本旧邸は、素朴高潔であった。将軍の日常を偲ぶのに最も良き記念物である。
因みに長男勝典中尉は、明治37年南山総攻撃に於て戦死し、次男保典中尉は、同年11月30日、歪頭山に於て戦死した。時に長男は26才、次男は24才であった。
大将夫妻、及び両息子の墓はともに青山墓地にある。

・東京都港区赤坂8-11-27
公式ホームページ

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