馬籠上陣場 (12 画像)
陣場とは、小牧・長久手の合戦(1584年、尾張の小牧と長久手で行われた、豊臣秀吉と徳川家康の合戦)の時、徳川勢の菅沼・保科・諏訪の三武将が馬籠を攻めるために、ここに陣を敷いたのでこの名がついたと言われている。
馬籠城は、馬籠宿の南西の入口荒町の中程左手の小高い所にあった。
木曽義昌が島崎重通(島崎藤村の祖)に守らせたが、徳川三武将に攻められ妻籠城に逃れた。その後、島崎重通が馬籠をひらいたといわれる。

●島崎藤村「夜明け前」第一部第一章第三節より
「お民、来て御覧。きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかねえ、木曾川の音が聞こえるかねえ。」
「ええ、日によってよく聞こえます。わたしどもの家は河のすぐそばでもありませんけれど。」
「妻籠じゃそうだろうねえ。ここでは河の音は聞こえない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手に取るように聞こえますよ。」
「それでも、まあ好い眺めですこと。」
「そりゃ馬籠はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。どうかするとお天気のよい日には、遠い伊吹山まで見えることがありますよ―」
林も深く谷も深い方に住み慣れたお民は、この馬籠に来て、西の方に明るく開けた空を見た。何もかもお民にはめずらしかった。僅かに二里を隔てた妻籠と馬籠とでも、言葉の訛りからしていくらか違っていた。この村へ来て味わうことのできる紅い「ずいき」の漬物(つけもの)なぞも、妻籠の本陣では造らないものであった。

・岐阜県中津川市馬籠

クリックして画像を拡大





トップページへ inserted by FC2 system