与謝野寛・晶子旧居跡 (24 画像)
かつて、この地には与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻が、晩年を過ごした家があった。二人は明治~昭和初期にかけて、短歌、評論、古典文学研究、詩などの分野で活躍した。 関東大震災の体験から、夫妻は郊外に移ることにし、この地(東京府豊多摩郡井荻村字下荻窪)を借りて、昭和2年、麹町区富士見町より引越してきた。
まもなく、その一部に洋風の家「采花荘」を建て、長男と次男を住まわせた。昭和2年には、与謝野一家は、晶子が自ら図面を書き、西村伊作設計による洋館に転居する。寛が、晴れた日には2階から秩父連山、富士山、箱根山脈までが遠望できるということで、「遙青書屋」と名付けた。この家は、クリーム色の壁に赤い屋根、窓のよろい戸が緑色の鮮やかな2階建ての大きな洋館で、昭和55年頃まで残っていた。1階は、広々とした廊下、応接間、書斎、客間用のベランダと負債の部屋、2階には、日本座敷が2間、階上階下に子供たちがそれぞれの好みで和風洋風の部屋を持っていたようである。そして、屋上には「鶯峴台(おうけんだい)」と呼ばれる物見台があった。4男アウギュストと5男の健、2人の名前に因んで寛が名付けた。鶯のさえずりを聞いたり、遠くの山々を眺めみるという意味もあった。
昭和4年には、晶子50歳の賀の祝いに弟子たちから5坪ほどの一棟が贈られ、夫妻は「冬柏亭」と名付けた。冬柏亭は6畳と3畳の2間からなり書斎や茶室として使用された。「冬柏」とは、夫妻の好きだった「椿」を意味している。現在、この「冬柏亭」は、京都の鞍馬寺に移築され、唯一現存している建物である。
敷地に向かって左方にある門を入るとサクラ、アカシアなどがあり、砂利の通路が玄関へと続いた。玄関には、アケビの棚があり、庭には、センダンやイイギリの大木、タイサンボク、カエデ、紅白のウメ、ロウバイ、カキ、クリなどたくさんの樹木があり、青葉の季節には、外から家が見えないほどであった。ブドウ棚の下には池があり、その少し北よりには、大きな藤棚もあり、夏になると、2階の窓からは、地面は見えないほどであった。晶子は、自然のままに育てた庭木の姿を好ましく思っていたからである。秋には、ドウダンツツジの垣根が美しく紅葉し、冬には、椿の一種、ワビスケの花が咲いた。
当時の荻窪を夫妻は次のように描いている。

私は独りで家から二町離れた田圃の畔路に立ちながら、木犀と稲と水との香が交り合った空気を全身に感じて、武蔵野の風景画に無くてはならぬ黒い杉の森を後にしてゐた。私の心を銀箔の冷たさを持つ霧が通り過ぎた。
「街頭に送る」 昭和6年 晶子

大いなる 爐の間のごとく 武蔵野の 冬あたたかに 暮るる一日  寛

井荻村 一人歩みて 蓬生に 断たるる路の夕 月夜かな  晶子

また、この家で夫妻は歌会を催したり「日本古典全集」の編纂や歌誌「冬柏」の編集をおこない、各地へ旅行して歌を詠み講演をした。
昭和10年3月26日、旅先の風邪から肺炎をおこして入院していた寛は、晶子を始め子供達や多くの弟子達に看取られながら62年の生涯を閉じた。
寛亡きあと、晶子は11人の子女の成長を見守りながらも各地を旅し、また念願の『新々訳 源氏物語』の完成(昭和14年)に心血を注いだ。
昭和17年5月29日、脳溢血で療養していた晶子は余病を併発して、この地に64年の生涯を終えた。
その後、昭和57年に、土地の一部を除き、杉並区立「南荻窪中央公園」として開園した。
平成19年11月には念願であった晶子の「歌の作りやう」の碑が地元の荻窪川南共栄会商店街により建てられた。さらに隣地の空地を取得し、与謝野夫妻ゆかりの地として再整備してほしいという強い要望があり、長きにわたる構想と地域の人々の熱い思いを受けて、名称を変更し、晶子没後70年の節目の年に「与謝野公園」として生まれ変わった。当時の建物や庭を再現したものはないが、与謝野邸の庭を訪問するような趣向として、入口には門柱を立て、玄関へと続く通路を造った。庭には夫妻が好んだ樹木を植栽し2人が詠んだ歌碑などを建立した。

※明治38年に鉄幹の雅号を廃し、この年より本名の寛を名乗った。

・東京都杉並区南荻窪4-3-22
公式ホームページ

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