綱島家 (7 画像)
綱島家は、当園に復元されている茅葺き民家の中では、建築年が尤も古く、1700年代前半(江戸時代中期)と考えられる。
綱島家のあった世田谷区岡本は、国分寺崖線と呼ばれる段丘崖の上に広がっており、起伏のある土地を使って、畑作が行われていた。江戸時代は、紅葉の美しい景勝地として知られた地域であり、明治以降には高橋是清など多くの著名人の別荘地となった。
綱島家の初代は1742(寛保2)年に没しており、それ以前、既に岡本に在住していたものと思われる。この家は代々引き継がれ、最後は10代目にあたる綱島次男の住宅として使われていた。9代目までは農業をもっぱらとしており、雑穀や野菜をつくっていた。家の東側は竹藪があり筍をとって用賀や渋谷の壱に出すこともあった。前の庭で、とれた作物を直接地面にのせ、脱穀などの作業をしていたため、庭はとりわけ大事にされていたという。
綱島家は、1908(明治41)年頃と1948(昭和23)年頃に増改築が行われた。このため、移築時には瓦屋根で、囲炉裏も失われていた。部屋もカッテ、ザシキ、ヘヤ、オクの4つ間に仕切った使い方であった。このため、建造物としては江戸中期の創建時に復元したが、内部は寄贈者の聞き取りなどから、昭和10年代の状況を想定した展示となっている。年中行事を残しつつ豊かな生活習慣が守られていた当時の暮らしぶりをうかがうことができる。
綱島家は、同じ西ゾーンの吉野家と同様、寄棟造り茅葺きの屋根を持つが、綱島家の方が軒がずいぶんと低い。また、全体的に開放的な吉野家に対し、綱島家は土壁がまわった閉鎖的なつくりであり、戸袋もなく、板戸としている。こうした特徴は、古い時代の民家の性格をよく示している。
平面は、板敷きのヒロマの西側に南北の続き間をもつ構成である。このような形式は広間型三間取りと呼ばれ、一般に天明家や八王子千人同心組頭の家にみられるような四間取り平面より遡る平面形式とされる。
屋根を支える小屋組は、八王子千人同心組頭の家と同じ叉首(さすくび)組であるが、綱島家では棟束が併用されている。北側のザシキをのぞいて天井はなく、縦横に組まれた梁が露出される様子は壮観である。また、梁の木口(こぐち)はそのまま外壁に突き出され、外観の特徴にもなっている。
ドマとヒロマの境にあるダイコクバシラは五平(ごひら)で、ナンドの前面には、オシイタと呼ばれる奥行きの浅い棚がそなえられる。ヒロマの前面には格子窓がはめられる。シシマドやサマなどと呼ばれるこの格子窓は、18世紀初頭してみられるものであり、換気、採光のほかに外部からの獣の進入を防ぐ役割をもつといわれる。また、西側のザシキ2室のうち、北側の部屋は床の間をもつ上、この一室のみ天井がかけられており、もっとも格式の高い部屋であることを示している。
低い軒、閉鎖性、広間型平面、オシイタ、シシマド、天井を張らない(構造材の露出)など、総じて古民家の特徴と魅力を率直に伝える建物である。

※叉首組・・・2本の斜材を組み合わせた叉首(合掌)によって棟木を支える小屋組の形式で、合掌造りともよばれる。岐阜県白川村の民家がこの形式のものとして有名。
※棟束・・・棟木を支える束。
※五平・・・長方形断面の材。

・東京都小金井市桜町3-7-1
公式ホームページ

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