天満屋跡 (3 画像)
龍馬横死の後の11月18日、上京していた開園大使は7人いたが、新撰組に狙われ、長岡謙吉は河原町の土佐藩邸に、そのほかの隊士は白川抱屋敷の陸援隊本部に収容された。陸援隊に合流した隊士たちは龍馬暗殺の刺客の捜索を開始した。最も注目したのは新撰組であった。現場に残された鞘に、禁裏御陵衛士らが新撰組の原田佐之助のものと証言したからだ。 一方、海援隊士陸奥源二郎(陽之助、宗光)と懇意の紀州の材木商人加納宗七は、紀州藩用人三浦休太郎が怪しいと告げた。いろは丸賠償問題を根にもち、新撰組をそそのかした、というのである。
そこで、まず三浦を除こうと同志を募った。長崎から上京した土佐藩遊学生の斎原治一郎(大江卓)や岩村精一郎も加わり、陸奥、関雄之助(沢村惣之丞)、岩村、斎原、加納、竹中与三郎が実行委員となった。竹中は龍馬と懇意にしていた神戸の薬種商人である。
12月6日、三浦が一力亭に登楼したという上方が入り、翌朝駕籠を尾行したが人違い。7日昼には斎原、岩村、関が、三浦が止宿する天満屋に押し掛けたが留守。しかし陸奥から三浦は確かに在宿という情報が入り、午後9時頃、用意を整え、十津川郷士の中井庄五郎ら総勢16人で斬り込んだ。
中井は1863(文久3)年から開始された十津川郷士による御所警備に加わったが、8月の天誅組の変で帰郷したと考えられる。抜刀術の達人で、1865(慶応元)年1月に大阪市中放火計画の容疑で新撰組の襲撃を受け(ぜんざい屋事件)十津川郷に逃れた土佐脱藩藩士那須盛馬(片岡源馬、利和)に勧められて再び上京し、竜馬とも親交をもった。龍馬のためならいつでも一命を捨てると語っていたといい、慶応3年8月17日に龍馬から青江吉次の刀一振を贈られている。なお、7ヶ于1日に龍馬と中岡新太郎が十津川屋敷を訪れたとの記録もある。
三浦は、狙われていることを知っている。紀州藩士らと斎藤一をはじめとする新撰組の猛者を護衛に酒宴を開いていた。
一番に飛び込んだのは、龍馬を敬愛していた中井。抜き打ちに切り掛かったが、頬をかすっただけ。その後は火が消されて暗黒になり、混戦状態となったが、「三浦を討ち取った」と叫ぶ者があり、海援隊士らはピストルを合図にすばやく引き上げた。
しかし、これは三浦側の機智で、三浦は負傷しただけ。後日の調査では、新撰組の宮川信吉(近藤勇の甥)が即死、梅戸勝之進が重傷を受けたほか紀州藩の3人が死亡、2人が負傷している。
一方、海援隊側では中井庄五郎が討死、竹中与三郎が右手首を切り落とされたが、懸命の治療で一命をとりとめた。
結局三浦は討ち取れず、龍馬暗殺の首謀者もうやむやのまま、この事件は歴史の闇の中に埋もれてしまった。
尚、当日の陸奥の様子を龍馬の妻・お龍はこう語っている(千里後日譚)。

「元々陸奥は隊中で「臆病たれ」と綽名(あだな)されて居まして、龍馬等が斬られて隊中の者が油小路の新撰組の屋敷へ復讐に行く時も陸奥は厭だとかぶりを振つたそうです。人に勧められてつゞまり行くことは行つたが、皆んな二階に躍り込んで火花を散らして戦つて居るに、陸奥は短銃(ぴすとる)を持つたまゝ裏の切戸で一人見て居つたと云ふことです。(雪山曰く陸奥の事に就ては実に意外なる話を聞けり、されど云ふて益なし、黙するに如しかざるべし、読者かの紀州の光明丸と龍馬の持船いろは丸と鞆の津沖に衝突して、いろは丸沈没したる償金に紀州より八万五千円を取りたる一事を知るべし、而して当時紀州の家老は実に此の陸奥の兄にして又龍馬を斬ったる津村久太郎等は常に会津紀州の間を往来し居たりと云ふ。一々対照し来れば蓋けだし思ひ半ばに過ぐるものあらん、噫あゝ)腕は余りたゝなかつたですが弁は達者な男でした。」

・京都府京都市下京区仏具屋町
公式ホームページ

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