西郷頼母邸跡 (3 画像)
1868(明治元)年8月23日朝、西軍が鶴ヶ城下に侵入し急を告げる早鐘が打ち鳴らされると会津藩士・家族達は籠城戦に備え競って入城を急いだ。
西郷邸では、頼母の留守を預かる妻・千恵子が長男・吉十郎を城に送り出した後、一族を集め、幼い者や子女は足手まどいになり、恥辱を受ければ家名の恥になると説き聞かせ、母・律子(58歳)をはじめ、季子(2歳)までの21人そろって辞世の和歌を詠み自刃した。
この日、郭内では、230余名の婦女子が自刃するという大きな悲劇を生む戦いとなった。
一族21人の墓は、鶴ヶ城南、門田町北青木善龍寺にあって毎年5月、その霊を弔う「なよ竹祭り」がしめやかに行われている。

・なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ  千恵子(34歳)
・死にかへり いくたび世には 生まるとも ますら武夫と なりなんものを  眉寿子(26歳)
・武士(もののふ)の 道と聞きしを たよりにて 思い立ぬる よみの旅かな  由布子(23歳)
・手をとりて 共に行きなば 迷はじよ(上句)  瀑布子(13歳)
・いざたどらまし 死出の山道(下句)  細布子(16歳)


福島県会津若松市追手町5-1
公式ホームページ

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