旧滝沢本陣 (51 画像)
参勤交代や領内巡視などの際の殿様の休息所。戊辰戦争の際に本営となり、会津城下にせめいる西軍を戸の口原でくいとめようとして秋雨しとしとと降る、1868(慶応4)年8月22日に悲壮な決意で松平容保が白虎隊に出陣を命じた所でもある。
又この日は土方歳三率いる新撰組が藩主松平容保、白虎隊を護衛して大いに活躍した。
茅葺きの屋根におおわれた書院づくりの建物は、国の重要文化財に指定され、御入御門、御座之間、御次之間、ざしき、なんど、おめえにわ、湯殿、厠等が遠州流の庭園にかこまれ当時の姿のまま残されており、さらに歴代藩主の愛用した身回り品、参勤交代の道具類、古文書なども保管されている。
建物のあちらこちらには弾痕や刀傷があり、当時の戦いの痕跡をとどめている。

有栖川熾仁親王御来臨 明治14年10月
三笠宮崇仁親王御来臨 昭和47年7月
秩父宮勢津子妃御来臨 昭和53年6月

●鶴ヶ城籠城戦
会津藩正規軍、旧幕府軍を加えて、約5000人、西軍36藩人数は数万と言われ、城の東方小田山より打ち込まれた大砲アームストロング砲は驚くべきものがあった。
最終的には会津藩5235人(男子武士4596人、女子639人うち奥女中64人)、大砲56門、小銃弾22000発、槍1320挺を残し、1ヵ月に及ぶ攻防戦は、慶応4年9月22日、遂に開城となった。
その後の松平家は藩主松平容保父子は滝沢村妙国寺に謹慎の後、江戸備前家へ永預けとなる。
1869(明治2)年11月3日松平家の再興が許され、藩主容保の実子容大(かたはる)が斗南藩30000石の藩に任命された。だが、容大は僅か2歳の幼君であったため、12300余人の武士たちとその家族は凍餓不毛の地で呻吟する。
4332戸の移住者は、陸路や海路を経て斗南藩へ入った。新天地を求めて初冬の移住は、到底筆舌ではつくせなかった。

福島県会津若松市一箕町大字八幡滝沢122
公式ホームページ

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