水車塚 (3 画像)
●水車塚の碑
1904(明治37)年7月、水害のためここにあった家屋は一瞬にして押し流され、一家4人が惨死した。
難を逃れた家族の一人、蜂谷義一は、たまたま藤村と親交があったことから、後年に供養のため藤村に碑文を依頼して建てたものがこの「水車塚」である。碑の裏には「信濃の国」の作詞者である浅井冽の撰文が刻まれている。

●峠の集落
この峠を上りつめると、峠の集落がある。1762(宝暦12)年に集落の殆どを消失する大火があった後、火災がないことから、この集落の家屋は江戸中期以降の姿を今にとどめている。
江戸時代、この集落の人々は、民間の荷物を運搬する「牛方」を稼業としており、俗に「岡船」と呼ばれ、美濃の今渡から遠くは長野の善光寺辺りまで荷物を運んだ。1856(安政3)年8月の、この牛方と中津川の問屋の間におきたストライキは、藤村の「夜明け前」にも登場する。

●名物栗こわめし
古くから峠の名物は栗こわめしであった。江戸期の戯作者十返舎一九は1819(文政2)年に木曽路を旅して「岐蘇街道膝栗毛」の馬籠宿のくだりで、このような狂歌を詠んでいる。
渋皮の むけし女は 見えねども 栗のこはめし 爰(ここ)の名物

・岐阜県中津川市馬籠

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