青木周蔵那須別邸・墓 (103 画像)
青木周蔵(1844~1914)は、ドイツ公使や外務大臣・駐米全権大使などを歴任した外交官で、特にドイツ翁と称されるほど長くドイツに滞在した。
周蔵は、ドイツの貴族地主に憧れ、明治14(1881)年ここに青木農場を開設した。この建物は、東京府麹町(現在の東京都千代田区)に本邸を持っていた周蔵の那須別邸として、1888(明治21)年に建築された。当時は中央の2階建ての部分だけであったが、その後増築を重ね、駐米大使を退いた1909(明治42)年に大規模な増築工事を行い、現在の形となり、本邸としての機能を備えるようになった。地域の人々から青木邸と呼ばれ、親しまれてきた。
設計者は松ヶ崎萬長(まつがさきつむなが・1858~1921)男爵で、岩倉使節団とともに留学生としてドイツに渡り、12年間滞在して建築を学んだ建築家である。
帰国後、ドイツとの建築技術交流に尽力し、ドイツ風建築を設計した。この青木邸は、わが国に遺る萬長の唯一の作品で、軸組や小屋組に洋式の構法を採用し、外壁に鱗形のスレートを用いるなどの特徴をもつ貴重な近代建築である。
ドイツで半小屋裏と呼ばれる3階小屋裏部屋は壁を約1m立ち上げ、その上に小屋組材を載せて、利用しやすい広い空間を生み出している。また、マンサード(二段勾配)風の屋根やドーマーウィンドウ、彫りの深い化粧柱や化粧梁、そして外壁に個性的な蔦型のスレートを用いるなどの特徴を持つ貴重な近代建築である。
栃木県は専門家による委員会を設けて、平成8年~10年の解体・復原工事では、建物の内・外装を青木周蔵の生きていた明治42年とおおむね同じ状態に戻すことを方針とした。そこで、壁や天井は板張りにペンキを塗った簡素な仕上げにし、壁紙の貼られていた部屋には同様の柄の壁紙を貼っている。また暖炉の大谷石や床材・壁材の一部には老朽化が見られたため、部材全体の約半分を新規材と取り替えた。
板室街道から青木邸へのびる整然とした並木は、明治時代には通りぬける馬車がよく似合ったといわれ、現在も当時のおもかげをとどめている。並木の北端と別邸の間にあった一対の翌檜(あすなろ)の大樹は、青木邸が南に約50m移して復原されたため、現在は青木邸の裏手(北側)にその枝を広げている。

●青木周蔵(1844~1914)
幕末の長州(山口県)に生まれた明治時代の外交官である。幼名を三浦団七と言ったが、蘭学と医学の修行を通じて長州藩の藩医である青木家の知遇を得、その養嗣子となった。明治の初め、最初のプロシャ(ドイツ)留学生として医学を学び、後、志を外交に向けた。
明治6年、折からの岩倉使節団の副使として奥州に滞在した木戸孝允に認められてプロシャ憲法を翻案した憲法案を作成することで官途が開け、やがて最初の駐独全権大使となった。明治18年には井上馨外相のもとで次官、明治22年からは山縣有朋内閣の外相、24年には松方正義内閣の外相として条約改正を手がけたが、来日中のロシア皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が護衛警官・津田三蔵に襲われて負傷した「大津事件」の責任を取って辞職、成功に至らなかった。しかし、明治27年には伊藤博文内閣の陸奥宗光外相と協力、駐英全権公使として条約改正の端緒を開いた。明治31年、第二次山縣内閣の外相となり、北清事変の解決などに努力を傾けたが、対ロシア強硬策で閣内不一致のもととなり、山縣内閣総辞職の原因となった。
青木は有能な外交官ではあったが、「ドイツ癖」とあだなされるほどドイツ一辺倒だったためもあって、三国干渉の予測を誤るなど、失敗も多かった。一方、伊藤博文のベルリン、ウィーンにおける憲法調査への協力を果たし、また、ベルツやケーベル、モッセ、エンデ、ベックマンなど有能な学者・技術者たちの招聘に力を致すなど、ドイツ系人文科学・自然科学・技術そのほか、豊かなドイツ文化を日本に移し植えた功績は大きい。
明治時代になると、国の殖産興業政策による気運が高まり、明治13年から18年にかけて、ここ那須野ヶ原にも地元有志の結社や明治の元勲・旧藩主たちが次々と農場を開設した。青木がこの地に青木農場を開設したのは1881(明治14)年のことで、別荘が建てられた明治21年頃の青木農場は、約1576町歩(約1563ha)の大面積を有していた。
ドイツの貴族地主(ユンカー)の生活に憧れ、青木農場において造林などに重点をおいた独特の農場経営を行った。水に乏しく原野だった那須野ヶ原も、1885(明治18)年那須疎水の開削によって開拓が加速された。現在、那須野ヶ原一帯には山林や水田・牧草地が広がり、広漠たる原野であった明治初期の面影は見られない。
明治20年には子爵の爵位を賜い、大正3年71歳で逝去。正二位勲一等旭日桐花大綬章を贈られた。プロシャ貴族の出であるエリザベート夫人との間に娘ハナがある。青木の私生活と公的生活のある部分は、森鷗外の小説「舞姫」に投影していると思われる節がある。青木盛久元ペルー大使は周蔵の曾孫である。

●松ヶ崎萬長(1858~1921)
萬長は、堤哲長の次男として京都御所近くの堤邸に生まれた。幼名を高丸といい、禁中児を務めた。1867(慶応3)年、孝明天皇の遺詔により新家を創立し、家号「松崎」を称する。1871(明治4)年ドイツ留学を命じられた萬長(当時は延麿)は岩倉使節団とともに渡欧し、1873(明治6)年から1884(明治17)年迄(つまり15歳から26歳まで、青春時代の殆ど全て)の12年間をドイツで過ごした。
この間、ベルリン工科大学で建築学の理論を学び、さらにドイツの建築マイスターに師事して、設計・施工・工務など、実践的な建築技術を学び、別荘などを設計した。
帰国後は、皇居御造営事務局を経て臨時建築局に勤務し、初代工務部長として、ドイツの建築技術の導入に尽力した。一方造家学会(現在の日本建築学会)の創立委員として中核的な役割を果たし、会の創立と発展に寄与している。
また、自らもドイツスタイルの建築を設計・監督して作品を残している。その代表作は、国内では七十七銀行(仙台)、晩年に建築活動を行った台湾では台湾鉄道ホテルであるが、いずれも現存しない。この青木邸は萬長の本邦唯一の貴重な遺構である。
松ヶ崎萬長は、明治期の日本の建築の近代化過程において重要な役割を果たした建築家である。

●松ヶ崎萬長の学資問題と青木周蔵の協力
明治13年5月、青木は2度目の駐独全権公使に任ぜられて赴いたが、まもなく重い肺炎にかかり、しばらくは療養が続いた。明治14年の三条実美の手紙は、青木の予後を見舞うとともに、折しもドイツ留学中の松ヶ崎萬長の学資についての心配を漏らしている。
松ヶ崎は明治4年秋、岩倉使節団一行に加わって日本を出発して以来、長期にわたってドイツで建築の勉強をしていた。ところが、長期の留学で、学資に事欠くようになった。青木はそれを惜しみ、宮廷費などからでも何とか学資を補助するように太政大臣三条や宮廷に勢力を張る佐々木高行などに申し入れた。その斡旋の結果、15年3月の三条の手紙で見るように宮内省からの「恩借」が決まり、松ヶ崎は無事学業を続けることが出来るようになった。松ヶ崎は後日、井上馨の内閣臨時建築局の有力な一員として、東京の都市計画などに携わっている。青木周蔵は傲岸な男と思われているが、一面、大変世話好きな面を持っていたのである。

・栃木県那須塩原市青木27
公式ホームページ

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