吉田松陰寓寄処 (26 画像)
1854(嘉永7)年3月18日、米国ペリー艦隊を追って下田に到着した吉田松陰、金子重輔は役人の目を逃れるため、それぞれ瓜中万二(かのうちまんじ)、市木公太と名を変え岡方村(現在の下田市4丁目付近)の岡村屋に宿泊し、米艦に便乗しての海外密航の機会をうかがっていた。
当時皮膚病を患っていた松陰は、温泉による治療のため、この蓮台寺を訪れ、向かい側にある共同湯(上の湯・天平年間に僧行基)で夜を明かそうとしていた。そこで偶然この家の主、村山行馬郎(ぎょうまろう)医師と知り合い、その好意によりしばらく村山邸に身を寄せることになった。松陰等は3月27日深夜まで柿崎の弁天神社の洞で眠り、2時頃に小船を出し米艦に漕ぎつけて便乗を懇請したが断られた。
企ての発覚を覚悟した松陰はいさぎよく自首し捕らわれの身となり、4月11日唐丸籠で天城山を越え、江戸伝馬町の獄へ送られた。
この村山邸は、松陰の居間として使われた2階の天井の低い部屋(隠れの間と言われる)や、掘り下げられた内湯の浴槽がそのまま保存され、松陰が使ったと伝えられる机や硯箱とともに、幕末開港時の秘話の舞台となった松陰隠れ家の面影を残している。

「世の人は よしあし事も いはばいへ 賎が誠は 神ぞ知るらん」

下田村平滑獄中での辞世の句である。

・静岡県下田市蓮台寺300

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