新茶屋の一里塚 (5 画像)
●新茶屋
この辺りの地名を「新茶屋」という。江戸のころ宿場と宿場の間にある茶屋を「立場茶屋」といった。かつての茶屋はここから岐阜県側に数百mほど入った場所にあったが、江戸の終わり頃に現在地に移った。そのためここを新茶屋と呼ぶようになった。わらび餅がこの茶屋の名物だった。

●「是より北 木曽路」の碑
ここは長野県と岐阜県の境、木曽路の入口にもあたる。1940(昭和15)年7月、当時68歳になった藤村が、地元の要請によって揮毫したものである。藤村は60歳ころから自らを「老人」と記すようになった。
この碑は藤村記念館の落成10周年を記念して1957(昭和32)年11月に藤村記念館建設の実行母体である「ふるさと友の会」によって建立された。

●芭蕉の句碑
松尾芭蕉が門人の越智越人を伴って、信州姥捨山の月見と善光寺参りを兼ねて中山道を旅したのは1688(貞享5)年のことであった。その旅を「更級紀行」として世に出した。
送られつ 送りつつ果は 木曽の穐
この碑が建てられたのは1842(天保13)年のことで、このころ岐阜県の美濃地方には芭蕉を祖とする「美濃派」の俳人が多くいて、これらの人々によって芭蕉の供養として建てられたものである。
島崎藤村の小説「夜明け前」では、この碑の除幕の当日のことが書かれており、穐の文字が蠅に読めるといっているが、蝿を正解とする説も多い。

●一里塚
街道の両側に「一里塚」が昔の姿で残っている。江戸幕府は1604(慶長9)年2月、諸街道を改修する際、日本橋を起点に東海道・中山道・甲州道中などの各街道整備の一環として一里を36町と定めて、一里ごとに道の両側に土を盛って塚を築き、塚の上には榎または松を植えて、旅の行程や駄賃・運賃の目安とし、休憩の場でもあった。
新茶屋の一里塚は天保~安政時代(1830~1860)には立木は右(江戸より京)に松、左は無かったが、整備あたり右に松、左に榎を復元した。現在中山道では殆ど失われており貴重な遺構である。

・岐阜県中津川市馬籠

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