旧島津侯爵邸 (24 画像)
この地は、1743(寛保3)年仙台伊達藩の下屋敷(敷地面積22,670坪)として開発され、1873(明治6)年に島津家の所有に移るまで約130年間使われた。
島津家では、この地が「袖ヶ崎」と呼ばれていたところから、「袖ヶ崎邸」として、桜田にあった旧島津藩上屋敷とは別に、公式行事の開催場所に使用し、1923(大正12)年の関東大震災後に本邸とした。
袖ヶ崎邸は、当初伊達藩の木造家屋をそのまま使用していたが、老朽化が進んだため、英国風の洋館に改築することを計画し、日本政府の招きにより来日し工部大学校建築学科の教授であった英国人J.コンドルに、1906(明治39)年に設計を委嘱し、その後数度の設計変更を経て、1915(大正4)年に建物の竣工をみ、その後、洋画家で知られる黒田清輝の指揮の下、館内の設備や調度が整えられ、1917(大正6)年に落成披露が行われた。
同年5月には、大正天皇、皇后が行幸啓され、寺内首相、松方正義、牧野伸顯、山本権兵衛、東郷平八郎、樺山資紀等の政府高官、陸海軍の将星等が多数参列した。3日後、島津家では新築披露のため朝野の名士約2,000名を招待し、盛大な園遊会を開催した。
建物は地上2階地下1階の構造となっている。島津公爵邸時代は、地下は主としてボイラー室、作業室、倉庫等に使用され、地上1階は島津家の公式のエリアとして応接室、バンケットルーム、書斎等に使われ、2階はプライベートなエリアとして、公爵夫妻の私室、家族の私室等に使用された。
昭和初期に金融恐慌のあおりで島津家も財政的な打撃を受け、当初約3万坪あった敷地を1929(昭和4)年には8千余坪を残し、周辺部を売却した。その後第二次世界大戦の苛烈化に伴い、大邸宅の維持が困難となり、島津家は袖ヶ崎邸を日本銀行に売却した。戦中、戦災を免れた邸宅は、戦後1946(昭和21)年1月にGHQの管理下に入り、駐留軍の将校宿舎として1954(昭和29)年まで使用された。
接収解除後の1961(昭和36)年7月に、清泉女子大学は日本銀行から土地、建物を購入し、1962(昭和37)年4月に横須賀から大学を移転して、今日に至っている。
島津邸は煉瓦造、地上2階地下1階建、総坪約280坪の大邸宅である。建築様式はルネッサンス様式であるが、特にベランダの柱頭飾りは、1階がトスカーナ洋式、2絵画イオニア様式で古典主義の規範に従っている。また南側の芝庭に面して円弧状のベランダや同じく円弧状に突き出た窓などバロック的な要素も加味されている。外壁は当時最先端のデザインだった白タイル貼りで、建物のアウトラインを強調するかのように貼られた隅石には灰色の新小松石が使われている。また、関東大震災にも揺るぐことのなかった堅牢な建物でもある。
建物全体はT字型で、1階はほぼパブリック・スペースで南側の接客部分と北側の使用人部分からなり、2階は家族のプライベート・スペースである。1階は大小の応接室が南側の芝庭に面して並び廊下でつながれ、その廊下は玄関ホールに向かっている。このホールを中心に、公爵の書斎、大食堂と家族の食堂、階段室と玄関室が配されている。2階には侯爵夫妻の寝室や子供室、浴室などがあり、暖炉の枠は1階が大理石であるのに対して、2階は木製である。しかし、1階と同様の円弧状の窓のある婦人客室の暖炉だけが白い大理石製であるのは、大正天皇皇后の行幸啓時に眺めの良いこの部屋を便殿(休憩所)として使用する予定があったからだと考えられる。階段の手摺や暖炉の彫刻、天井の漆喰装飾やステンドグラスは、ほぼ当時のままの姿で残されている。 旧島津公爵邸はコンドルの設計による数少ない現存住宅建築の遺作として、彼の晩年の力作の一つに数えることができるものである。

・東京都品川区東五反田3-16-21
公式ホームページ

クリックして画像を拡大





トップページへ inserted by FC2 system