西川家別邸 (12 画像)
西川家別邸は、1922(大正11)年、多摩地域でも有数の製糸会社を設立した西川伊左衛門によって建てられた。この建物は、当時「お別荘」と言われており、本邸として使われていたものとは別に、接客用兼隠居所として建てられたものである。
多摩地域は、江戸時代から養蚕・製糸業が盛んであった。1859(安政6)年の横浜港の開港をきっかけに、生糸は最大の輸出品となり、養蚕・製糸業はますます盛んになった。その隆盛ぶりは明治時代になっても衰えず、昭和初期まで続いた。西川家別邸のあった昭島市域は、多摩地域でも有数の養蚕地帯として発展した。
西川伊左衛門が設立した西川製糸は、1893(明治26)年、座繰り製糸器械5台、工女15名で操業を開始した。以降、時流に乗り、多摩地域屈指の製糸工場となり、その製品は1926(大正15)年にアメリカのフィラデルフィアで開催された博覧会で高品質を認められて表彰されるほどであった。昭和初期に最盛期を迎えるが、戦時体制が強まるにつれて、西川製糸も軍需工場への転換を余儀なくされ、1940(昭和15)年頃に製糸工場としての役目を終えることとなった。
この建物の西側の2部屋は接客用として用いられ、取引先の業者や土地の有力者などが集まった。取引先の業者の中には外国人も多かったが、彼らをもてなす際、テーブルや椅子を出すことはなかったという。その他の各部屋は、隠居所として日常使う部屋となっており、玄関より玄関の間を通って神棚のある6畳は、居間として用いられた。また、玄関の間のすぐ東側にある6畳は応接間として利用され、身近なお客を接待する時などに使われていた。なお、現在は復元されていないが、主屋の東側に蔵があり、そのわずかな空間に、流しなどが設けられていた。
西川家別邸は、接客用の部屋と日常使う部屋とを分けた、当時の住宅建築の主流をなした造りとなっている。
この住宅の特徴としては、まず接客空間と居住空間との明確な分離があげられる。つまり建物西側の2つの10畳が接客空間であり玄関および玄関の間、そして4つの6畳をもつ東側のブロックが居住空間である。
接客空間の2つの客間は、西側から「一の間」「二の間」と呼ばれる。このように客間を2室の続き間とする点は、近世住宅以来の伝統を受け継いでいる。客間の裏側に便所を設けている点も、伝統的な民家形式の影響をうかがわせる。
一方、東側の居住空間は、「玄関の間」から右に伸びる中廊下によって南北に分けられ、南側に応接間(「客間」よりも日常的な接客の場)、北側に座敷と居間を廃する。このように居住スペースが条件の悪い北側に置かれているところは、元来接客を目的として建てられた別邸とはいえ、日常的な空間よりも接客のための空間が重視されていた時代性をよく表しているといえる。
西側の接客空間と東側の居住空間とは、客間をぐるりと巡るように配された廻り廊下によって結ばれる。勝手口にあたる土間から茶の間を通り、廻り廊下を通って西の客間へ至るという合理的な動線が、取り入れられている。
総じて、この建物は、伝統的な住居形式と近代的な合理的手法が融合された「近代和風」としての特質をよく表している。また、欄間や天井のデザインなどもこの建物の大きな見どころである。

・東京都小金井市桜町3-7-1
公式ホームページ

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