豊田佐吉記念館 (47 画像)
豊田佐吉は、1867(慶応3)年2月14日、この地に生まれた。 ここには、佐吉の生家が当時に近い形で復元されており、また、佐吉が40歳の頃、両親のために建てた母屋、物置が現存し、佐吉に関連した資料が収集されている。
この他、若い頃研究に没頭した納屋や、少年時代に遊んだ裏山なども、できるだけ当時の姿で残るよう配置されており、屋敷全体が「発明王」豊田佐吉の生い立ちや業績などを、十分うかがえる記念館として保存された。
1890年、東京で開催された内国勧業博覧会で外国製織機を見、独力で「豊田式木製人力織機」を発明した。その後も研究と改良を続け、1924年にはその当時世界一と評価された「G型自動織機」を完成した。そのたゆみない研究と創造の精神は脈々と受けつがれ、現在のトヨタグループの礎となっている。
佐吉の志は自動織機の発明にとどまらず、自動車をはじめとする日本の産業の発展へと大きく広がった。

「障子を開けてみよ 外は広いぞ」 豊田佐吉


●1879(明治12)年 岩津の天神さまに誓う
生来あまり体が丈夫でなかった佐吉は、両親が心配していることを知り、ご利益があると評判の岡崎の岩津天神へ、健康を願って往復100kmもの道のりを歩いて参拝した。「国のため人のために役立つ立派な人間になろう」と誓う佐吉は、このころから意志の強い少年であった。

●1883(明治16)年 観音堂での熱のこもる夜学会
産業、文化ともに外国から大きく遅れ、そのうえ不景気のどん底でもあった当時、佐吉は村の若い仲間を集めて夜学会を開き、「日本をよくするためには、われわれの若い力が必要だ」と、新しい知識の吸収に励んだ。

●1885(明治18)年 発明家になろうと志す
父の大工仕事を手伝っていたとき、佐吉は小学校の先生が話す外国の有名な発明家の話に感銘を受けて、国のため人のために役立つ発明家になろうと決心した。

●1885(明治18)年 手機機の改良を思い立つ
毎日、夜遅くハタ織り仕事をしている母親の姿を見ていた佐吉は、「ハタ織りより楽な糸紡ぎでさえ、政府がイギリスから輸入した大仕掛けな機械で行っている。それより大変なハタ織りの仕事こそ、もっと大々的に機械化すべきだ」と考え、動力織機の発明に打ち込んだ。その手始めとして、まず手機機の改良を思い立った。

●1887(明治20)年 発明に打ち込む佐吉
稼業に励めという父の目を逃れ、変わり者扱いをする村人の目に耐えて、佐吉は納屋にこもっては手機機の改良、発明に打ち込んだ。やさしく佐吉を見守る母親がただひとりの理解者であった。

●1890(明治23)年 内国勧業博覧会を見学
外国製の機械の優秀さに驚いた佐吉は、会場へ通いつめて多くのものを学ぼうとした。その熱心さは、会場警備の人に不審がられ、とがめられるほどであった。

●1890(明治23)年 豊田式木製人力織機を発明
佐吉はついに豊田式木製人力織機を発明し、まず母親に織ってもらった。能率よく織り上がる布を見て感激する母の姿に、佐吉は「これは発明の第一歩だ。発明に終りはない。もっともっとすばらしいものを発明しよう。」と決心した。

●1896(明治29)年 日本最初の動力織機を発明
29歳にして佐吉は、ついに日本で最初の動力織機を発明した。機械の評判はよく、発明家としての豊田佐吉の名は広く知られるようになった。多くの名士が工場を訪れたが、大隈重信は「日本人の知恵と力を示した」ことに対し、感銘を受け敬意を表した。

●1903(明治36)年 世界最初の杼換式自動織機
佐吉は、よこ糸の補給を自動的に行う自働杼換(ひがえ)装置やたて糸切断自動停止装置ほかを発明し、ついに世界で最初の無停止杼換式自動織機を完成させた。この織機は高能率であるうえ、織物の品質も大変よくなったので、日本の織物の輸出が盛んになった。

●1910(明治43)年 広く海外に目を向ける佐吉
佐吉の発明に対する情熱はつきることなく、さらに知識を世界に求めアメリカ、ヨーロッパを視察した。ニューヨークでタカヂアスターゼの発明者高峰譲吉と出会い、国のために役立つ仕事を、という熱意を増大させた。また、諸外国の織機を見て、自分の発明した自動織機に自信を深めて帰国した。

●1921(大正10)年 環状織機の完成をめざす
真の国際親善は、お金の力や軍事力やいばった外交ではできない。助け合うことが大切だと、佐吉は中国に渡り、上海に大規模な紡織工場を建設した。そしてつきることのない佐吉の情熱は、先に発明したまったく新しい発想による環状織機の完成に注がれた。

●1929(昭和4)年 佐吉の発明が世界に認められた
当時、世界の繊維機械産業をリードしていたイギリスのプラット社は、佐吉の発明した自動織機の優秀さを認め、その特許権の買い取りを申し入れてきた。「ついに世界一になった」、佐吉の感動はひとしおだった。

●1930(昭和5)年 日本人の手で自動車を
かねてから佐吉は、街を走る外国製の自動車を見て長男・喜一郎に言った。「わしは織機を発明し、お国の保護(特許)を受けたが、お国のためにもつくした。おまえは自動車をつくれ。自動車をつくってお国のためにつくせ。」
佐吉のモノづくりの情熱は絶えることなく、今もなお多くの人に受け継がれている。

●豊田佐吉生家

・静岡県湖西市山口113-2
公式ホームページ

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