凌寒荘 (11 画像)
佐佐木信綱が熱海に居を構えるに当たって次のような逸話が残っている。
友人が坪内逍遥の双柿舎を訪れたとき、「先生は晩年にいろいろな仕事がよくできます」と言ったところ、そばから夫人が「これは熱海におるお陰で、半分は熱海が主人に書かせるのです」という話を伝え聞いた。
昭和19年、72歳のとき肺炎を患い、数ヶ月間を生死の境をさ迷うような危機に直面したが、西川・山川博士の献身的な治療により回復した。信綱は著作に専念と病後の静養をかね、12月、山川一郎・下村海南らの勧めにより、熱海市西山の西原民平の別荘に移り住んだ。冬の寒さの余り厳しくない熱海が気に入り、亡くなるまでの19年間をここ過ごした。
「凌寒荘」の名は、友人の徳富蘇峰が庭に老梅一樹のあるのを見て、中国の名文章家、王安石(1021~1086)の詩の一節をとって名付けた。

牆角數枝梅 凌寒獨自開 遙知不是雪 爲有暗香來
牆(かさね)の角(すみ)なる数枝(すうし)の梅 寒を凌いで独り自から開く 遙かに知る是れ雪ならざるを 暗香(あんこう)の有りて来(きた)るが為なり

6歳のときから父の指導で万葉集、山家集を暗誦し作歌を始め、27歳のとき万葉歌風の「心の華」(後に心の花と改題)を発刊する一方、多くの優れた門人を輩出した。明治36年、32歳で処女歌集「思草」を出している。

願はくは われ春風に 身をなして 憂ある人の 門をとはばや(歌集「思草」より)

大正元年、第2歌集「新月」を刊行する。

ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲
秋さむき 唐招提寺 鵄尾の上に 夕日薄れて 山鳩の鳴く(歌集「新月」より)

信綱はただ熱海に住んだだけではなく、熱海のためにも随分と力を尽くした。
現在の熱海中学校の校歌も彼の手によるものである。
昭和33年の狩野川台風の犠牲者の慰霊碑(熱海網代駅上の月見が丘公園)にも彼の歌が刻まれている。
昭和23年、妻雪子に先立たれた悲しみは、歌集「山と水」に次のように歌われている。

呼べど呼べど 遠山彦の かそかなる 声はこたへて 人かへりこず
門川の 流れのおとを 聞きつつ立つ 一人の我の 此の夕べかも

弟子の木俣修は昭和39年4月号の「心の花」で次のように述べている。
「愛するものを失ったといっても、作者は若年ではない。若年のものならば狂乱して慟哭するにちがいないが、77の歳を得てすでに規を超えることのない節義を身につけた作者には狂乱の劇場というものは見られない。しかしむしろそれゆえに悲哭のおもいは内にこもって堪え難いものがあったのではなかったか。この一連はそうしたことを考えさせるような哀切の響きを蔵している。作者生涯の一秀吟といってよい。」

昭和38年12月2日、この地で永眠。享年92歳であった。

・静岡県熱海市西山町12-18
公式ホームページ

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