六義園 (236 画像)
六義園は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の側用人として名高い武州川越藩主柳沢吉保が、1702(元禄15)年駒込の別墅(べっしょ・別邸)に自ら造り上げた庭園である。江戸時代から 名園のひとつに数えられ、当時の大名庭園に多く見られる回遊式庭園となっている。元々は平坦な武蔵野の一隅にあるこの地を庭園にふさわしい地形に造り変えるため、池を掘り、千川上水の水を引いて大泉水を設け、富士山や筑波山が望めるような山を築くなど、園の造営には7年半もの歳月がかかった。
本園の大きな特徴は、吉保の文芸趣味を反映した「和歌」を基調とした庭造りにある。「万葉集」や「古今和歌集」などに多く詠まれた紀州(現在の和歌山県)和歌の浦の風景を映し出した大泉水をはじめ、和歌の浦周辺の名所や、数々の歌人たちに詠まれてきた「歌枕」など、和歌や中国の古典にちなんだ景観を「八十八境」として取り込み、繊細で温和な庭園に仕上げている。六義園の名の由来は、紀貫之らが編纂した「古今和歌集」仮名序・真名序に書かれている和歌の6種類の様式「六義(六種=むくさ)」にちなむものである。
柳沢吉保は現代では評判のあまりよくな人物として扱われているが、政治家としては綱吉の側用人や老中格として、また川越藩主、後の甲府藩主として数々の業績を残しており、学問においては、和歌だけではなく儒学や仏教にも造詣の深い教養をもつ人物だった。六義園にはそうした吉保の素養の高さが園内全体に散りばめられているのである。
吉保の「八十八境」の設定にあたっては、国文学者・北村季吟の大きな影響があったと、近年考えられている。綱吉は、荻生徂徠などの当時の知識人を幕府のブレーンとして多く呼び寄せたが、国文学者として登用したのが北村季吟である。季吟は源氏物語の解説書である「源氏物語湖月抄」や万葉集の解説書である「万葉拾穂抄」などを著し、66歳の時には江戸城に詰め、幕府で最初の和歌専門職である「歌学方」として綱吉の和歌指導などに励んだ。吉保自身もこの北村季吟から和歌を学び、六義園造営の最中の1700(元禄13)年に、「古今和歌集」の秘伝ともいうべき「古今伝授」を季吟から授かっている。また、吉保のみならず、正室や側室なども季吟に師事し、側室・正親町町子は、王朝物語風の吉保伝として「松蔭日記」を記している。
さらに、季吟は、山部赤人・柿本人麻呂とともに和歌の三神のひとりと言われる衣通姫(そとおりひめ)が祀られている玉津島神社や、和歌の浦などを実際に訪ねてその風景を目にしているため、多忙な吉保にとっては作庭に関する最高の助言者となっていたのではないか。
作庭当時、吉保は側用人の要職に就いており大変多忙であったため、江戸城中から連絡係を毎日通わせて築庭の様子を図面に書かせ、それを見てあれこれと指図を出していたと、「松蔭日記」に記されている。それに象徴されるように、吉保の本園に対する思い入れは大変に強いものだったようで、本人が著した「楽只堂年録」には、六義園の作庭意図が事細かに記されている。
この中で吉保は「六義園で遊ぶものは和歌の道に遊ぶことと同じ」と言っている。また、「八十八は八雲の道その至極にいたり、終わりてはまた始まり、春夏秋冬の廻りてやまざるごとく、窮まりもなく、やむこともなく、天地とともに、長久なる心なるべし」と「永遠」を意識して「八十八」の境を設けたことが述べられ、その由来が、たくさんの和歌とともに書き記されている(後年、古典から映した景色はさらに増え、八十八ヶ所を超えた)。
六義園の評判は作庭当時から高かったようであるが、和歌の世界に憧れ、また皇室を尊んでいた吉保は、さらに狩野派の絵師に描かせた本園の絵図を霊元上皇に献上した。後に、これに対して上皇は園内に「十二境八景」を選び、廷臣たちに命じて和歌を詠ませた巻物が下賜された。一幕臣の屋敷の庭園に上皇を通じて和歌が贈られるのは稀なことだったが、これらも当時、小石川後楽園と並び、江戸の二大庭園と称された所以である。綱吉の御没後まもなく吉保は隠居するが、晩年の5年間余りをこの地で過ごしたのち、六義園においてその生涯を終えた。
名園として名高かった庭園も、やはり六義園を愛した柳沢家3代目の当主信鴻(のぶとき)が1792(寛政4)年に亡くなって以降は荒廃の一途をたどったが、1809(文化6)年4代保光が約1年の月日と多大な費用を投じて復旧工事を行い、一部新たな景勝を加え甦ることとなったのである。その経緯については今も園内に残る「新脩六義園碑」に記されている。

●六義園と岩崎家
・六義園は岩崎家別邸だった
柳沢家はその後も続いたが、7代・保申(やすのぶ)の頃に明治維新を迎え、六義園は新政府に上地され、173年間にわたる柳沢家別邸も終わりをつげた。幕末の混乱期を経て庭は再び荒廃していたが、1878(明治11)年、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎が、近隣の藤堂家、前田家、安藤家の土地屋敷とともにこの地を手に入れ、六義園に別邸を設けたことから庭園の本格的な復興が始まったのである。岩崎家は1874(明治7)年に上京し、今の文京区湯島4丁目に居をかまえ六義園の地とは目と鼻の先ほどの所に住んでいた。そして、その修理工事は弥太郎から弥之助(弥太郎の弟)、久弥(弥太郎の長男)へと受け継がれ、園内には茅葺の「桃の茶屋(現心泉亭)」、「滝見茶屋」、「吟花亭」、岩崎家の熱海の別荘から移築した「熱海茶屋(現吹上茶屋)、柱がツツジの枝幹で作られた「つつじ茶屋」、「芦辺茶屋」などの建築物も配され、ようやく往時の美しさを取り戻した。蓬萊島や佐渡の赤石など、園内に配された名石は岩崎時代のものも多く残っている。

・大名屋敷を次々と手に入れる岩崎家
『・・・その後は、さしもの名園も次第に頽廃に傾き、維新後は全く荒蕉に帰したが、弥太郎は(明治11)年、清澄庭園と同じ頃これを手に入れ、その後さらに隣接の藤堂・安藤・前田諸家の邸地を併せ、総計12万坪(約396,000㎡)を合してここに別邸を営んだ。その地域は現在の文京区上富士前、同駕籠町及豊島区巣鴨2丁目、同駒込染井に跨がる広大な土地である。川田小一郎があまり大きすぎるがどうするつもりかと尋ねたところ、弥太郎は「俺は板橋辺まで買い、国家の役に立つことをやってみるつもりだ」と語ったという。』(「岩崎久弥伝」岩崎家の伝記)

・岩崎家による庭園の復興
維新後、幕末の混乱期を経て庭は荒廃していたが、岩崎家が別邸を設けたことから庭園の本格的な復興が始まった。その修復工事は弥太郎から弥之助(弥太郎の弟)、久弥(弥太郎の長男)へと受け継がれ、園内には茅葺の「桃の茶屋(現心泉亭)」、「滝見茶屋」、「吟花亭」、岩崎家の熱海の別荘から移築した「熱海茶屋(現吹上茶屋)」、柱がツツジの枝幹で作られた「つつじ茶屋」、「芦辺茶屋」などの建築物も配され、ようやく往時の美しさを取り戻した。蓬莱島や佐渡の赤石など、園内に配された名石は岩崎時代のものも多く残っている。
※つつじ茶屋以外の建物は、震災や戦災などで焼失しており、現存しているものは再建されたものである。また、吟花亭と芦辺茶屋は築庭当初にも存在したが、岩崎家の時代に場所を変えて再建された建物である。

・「樹木数万本」と全国の「庭石」
「六義園が弥太郎の在世中どの程度まで復旧工事をすすめたかは明らかではないが、弥太郎の歿後、弥之助(弥太郎の弟)は1886(明治19)年に修復の工を進め、新たに下総の山林(後の「末広農場」)から樹木数万本を移植し、各地から庭石を集めて、往時の景観を復元した。また園内各所に瀟洒な亭榭を建て、六義館の跡には小邸を造築した。」(「岩崎久弥伝」岩崎家の伝記)

・弥太郎と庭園
弥太郎には若い時から庭園の趣味があった。土佐の井ノ口村(現安芸市井ノ口)の生家には、青年時代につくったという大小の石を日本列島に配した小庭が残っている。
「吾は性来これという嗜好なけれど、常に心を泉石丘壑(せんせききゅうがく)に寄す。これを以って憂悶を感ずる時は名庭園を見る。(中略)ひとり加賀邸の庭園は無数の巨巖大石を配置し老樹點綴(ろうじゅてんてい)して豪宕(ごうとう)の趣き深山の風致あり。若し吾に庭園を造るときあればかくの如きものに倣はんと欲す」(「岩崎久弥伝」岩崎家の伝記)
彼は広大な規模を有して、泉石樹林が自然の風致を示す庭園を好み、特に石を愛した。庭園の修築に際しては人を派遣して各地の石を集めた。よい石がみつかったという知らせに対する返書が残っている。
「太湖石十個御買取の旨承知致し候。右は窓外の竹蕉の間に位置するに宜しく、弘大の池畔砌中に撤布羅列するに不適なり。当地にて美濃石は珍重すると聞く。定めて御申越のものは築島、佐久間辺りよりの出品なるべきか。」(「岩崎弥太郎伝」岩崎家の伝記)

・日露戦争と六義園
1905(明治38)年10月、日露戦争から凱旋した連合艦隊司令長官東郷平八郎大将をはじめとする将兵6,000人を岩崎家が招待し、この六義園を中心として一大戦勝祝賀会を催した。それまで一般には公開されなかったこの六義園が、戦勝ということと久弥氏の国に対する恩顧からか、初めて開放されたことは、庭園の持つ意義から重要な歴史的事実といえる。

・高級住宅地「大和郷」
大正後期から、六義園を含む一帯12万坪に及ぶ岩崎家の地所は、「大和郷(やまとむら)」と名づけられた計画的な都市開発により高級住宅地として分譲された。久弥はその中心にある六義園を1938(昭和13)年に東京市に寄付した。
当時の様子を各新聞で次のように取り上げている。

4月16日付「中外新聞」
”柳沢の栄華を偲ぶ六義園、市民に公開 岩崎久弥男、市へ寄贈”
江戸時代から残る帝都有数の名園本郷区駒込上富士前町の六義園が市の公園として公開されることになった。これは名園として名高い深川の清澄庭園を市に寄贈した岩崎久弥男の所有にかかるもので今回男の好意により寄贈することになったもので総面積3万坪(700万円)、五代将軍綱吉の時、権勢並ぶものなき老中柳沢吉保の下屋敷として元禄年間築造されたもので全国の名木珍石多く園内の十二境八景はそっくりそのまま保存されている。井下公園課長は15日園内を岩崎男と共に一巡したが市ではこの純日本式庭園に続いて隣にスポーツ施設も行い遅くも9月初旬には公開の予定で開園の暁には清澄庭園、後楽園と共に帝都の三名園が市民の行楽を待つことだろう。

4月16日付「東京朝日新聞」
”天下の「六義園」を岩崎男が寄附 市で体位向上に開放”
帝都第一の名園として海外に喧伝されている清澄庭園15,000坪先に東京市に寄付した岩崎久弥男が今度は国民の体位向上に利用してもらいたいと15日、本郷駒込別邸3万坪(時価700万円)を東京市に寄附申出を行った。
東京市では市長代理として井下公園課長が岩崎邸を訪問して寄附を受領し、近代的スポーツ公園としての施設を行い600万市民に開放することとなった。
この別邸は徳川5代将軍綱吉の頃飛ぶ鳥も落とす権勢を誇った老中柳沢出羽守吉保の下屋敷として築造したもので諸侯は先を争って諸国の名木名石を持寄ったので工事は驚くべき短日月で完成し詩歌に所謂六体六義の語に因んで六義園と名づけ園内の十二境八景は、その美麗な風致を天下に誇ったものである。
東京市ではさきに開放した清澄庭園、後楽園と並んでこのスポーツ公園の新登場によって市民公園の充実を喜んでいる。

6月7日付「東京日日新聞」
六義園が東京市に寄付されたが、これがまた心なきお役所技師によって、コンクリートとペンキとブリキに犠牲になって寄付者の好意を了らしめないように祈るものである。
公園に「静的」と「動的」あり、日本の名園は概ね前者に属する。たとえば井の頭はいわば詩園であり、瞑想の池であり、さすらいの林道であり、年長者の庭であるべきであった。市に賜ってから、その寂びた池は、調子外れのペンキ塗りボートが徒らに水鳥を騒がせ、安っぽい路燈や標柱や俗っぽい獣の檻は似面非なる「場末日比谷」を造った。ついには児童の健康にもよくないあの冷水のプールを設備した。日本の風景美、建築美を毒するものは、生のままのペンキとセメントである。しかも便利と経済とは、これらを必需品とする。ここにそれらの「考慮されたる適用法」と「真の意味の擬装」が要求されるのではないか。
オリンピックもすでに迫り、俗悪不体裁な看板、電柱、沿線広告とともに、その建築と造園と舗道と一切が日本的に設備され調和さるべく、その筋のブレインスタッフの協力再検討を要することと思う。

1938(昭和13)年4月27日に寄附受領をした東京市は、園路整備(豆砂利敷)と人止柵設置、および松の手入を行い、同年10月6日に開園した。

●六義とは
古今和歌集の序文は、ほぼ同じ内容を和文と漢文で書いた紀貫之の「仮名序」、紀淑望の「真名序」の2通りがある。「真名序」では、「和歌有六義(和歌に六義あり」とあり、詩経の大序が引用され、「一に曰く 風、二に曰く 賦、三に曰く 比、四に曰く 興、五に曰く 雅、六に曰く 頌」と、漢詩の種類「六義=風・賦・比・興・雅・頌」がそのまま和歌にあてはめられている。「仮名序」の部分では、「歌の様六つなり。唐のうたにも、かくぞあるべき」と、漢詩の分類法になぞらえて歌の「六種(むくさ)」を「そえ歌」「かぞえ歌」「なずらえ歌」「たとえ歌」「ただごと歌」「いわい歌」と説明し、それが「六義」に対応していることが示されている。作庭当時、吉保は園名を「六義園」と書いて「むくさのその」、館を「六義館」と書いて「むくさのたち」と呼ばせていた。本園の名称は、漢詩としては「六義」であり、和歌としては「六種」と考えられ、それぞれ武(政務)と芸(遊び)のあり方、心がけを表していると理解することができる。元禄時代という太平の世に生きた幕府の要人が、政務のあいだに和歌によせた思いが、庭造りの想いに重なる。

●八十八境を現代に伝える石柱
園内に散りばめられた八十八境には、それぞれの名称が書かれた石柱が建てられている。石柱の頭が三角に尖っているものは作庭当初に建立されたもので、この字は儒学者であり、書家でもある細井広沢によるものである。後に、修復等で更新されたものは石柱の頭が平らになっている。この石柱が長い年月を経ても八十八境の標となっている。現在園内で確認できている石柱は、32ヶ所のみとなっている。

東京都文京区本駒込6-16-3
公式ホームページ

クリックして画像を拡大





トップページへ inserted by FC2 system