御薬園 (25 画像)
今から、およそ600年前の至徳年間(1384から1386)葦名氏7代直盛が会津の地に初めて東黒川館(後の鶴ヶ城)を築き、領主として会津統治に力を入れるようになった。このころ館の北の方角に大田谷地という野原があり、鶴が十数羽舞い遊ぶのをみた。
そこには一軒の農家があり、喜助というものが病気で難儀していたが、朝日保方という白髪の老人が鶴の舞い降りた泉で喜助を介抱しやがて、喜助は元の体に戻った。保方老人はそれを見届けるようにしてこの世を去った。喜助は疫病から救ってくれた恩人として救い主の保方を霊泉のかたわらに手厚く葬り、祠をたてて朝日神社とし、霊泉の泉を鶴ヶ清水と名づけたということである。 永享四年(1432)の頃十代盛久この地は霊地であるとし四角四面に区切り、別荘を建てた。16代盛氏(天正年間・1573~1591)の頃は葦名氏の全盛期で盛氏は別荘を復興した。これが御薬園の創始とされています。
その後時代は伊達、蒲生、上杉、再蒲生。加藤と移り長い戦乱が続いたため、別荘はまったく顧みられなかったが、松平氏の藩祖保科正之は霊地の由緒をただして、庭園を整備し、保養所として用いるようになった。
現在の庭園は3代正容の1696(元禄9)年小堀遠州の流れをくむ、園匠・目黒浄定と普請奉・行辰野源左衛門の手によるもので、規模を拡大し借景を取り入れた池泉回遊式の大名庭園に大補修を加えたものである。中央に池を広くとり、中島をおき茶亭を設けて楽寿亭と称する。池の奥、右に男滝、左に女滝がある。後方に低い築山を設けて東山連峯の風景を豊かにとり入れ、また石敷路をたどって池畔をめぐる風致も変化に富んでおり、朝鮮人参の栽培に成功し、広く作付けを推奨したことから「御薬園」と呼ばれるようになった。目黒浄定はこのとき、「御薬園付絵師」という藩の肩書きを与えられていた。
戊辰戦争時には御茶屋御殿が西軍戦傷者の治療所にあてられていたため、戦火を免れた。
昭和7年に、国の名勝に指定され、同28年より一般に公開されている。

●御茶屋御殿
●楽寿亭
●重陽閣

福島県会津若松市花春町8-1
公式ホームページ

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