田園調布の家(大川邸) (22 画像)
田園調布の家(大川邸)は関東大震災後の1925(大正14)年、現在の大田区田園調布に建てられた住宅である。 この家を建てたのは当時鉄道省の土木技師であった大川栄である。創建当初は夫婦と子供2人、お手伝い1人の合計5人で住んでいた。 生活の様式は、大正時代の生活改善運動で理想とされた「椅子座」で考えられており、創建当時は全室洋間で建てられている。居間、食堂、書斎は寄木張り、寝室と女中部屋はコルク敷きである。寝室は1年ほどで畳に張り替えたという。
建物内部は、大正末から昭和初期の生活の様子を再現しているが、書斎机、居間のテーブル、食堂のテーブルとサイドボード、寝室の整理タンスは当時から大川家で使われていたものである。そのほかの多くは、展示のために購入した演示品である。照明器具も写真をもとに製作した複製品であるが、玄関ポーチのキツツキ形の玄関灯と、玄関ホールの証明は、創建当時のものである。また、土台にはめられた換気口の金物も当時のものであり、モダンなデザインとなっている。
施主の大川栄は当時から写真の趣味があり、大川家では機会あるごとに写真を撮っていたため、多くの古写真から生活の様子をうかがうことができた。
田園調布は、実業家渋沢栄一が設立した「田園都市株式会社」によって開発された郊外住宅地である。多摩川台地区)現在の田園調布)の土地の分譲は1923年に始まったが、関東大震災の影響から都市を離れ郊外に移住する風潮も生まれ、分譲地の売れ行きは好調であった。
また、この住宅の設計者は当時岡田信一郎建築事務所の主任技師であった三井道男である。大川家では当時の設計図を保存していたため、復元工事の際には、ほぼ創建当時の姿に戻すことができた。
田園調布の家は、増築、改築を重ねながら創建当時の姿をよく保ちつつ平成5年まで使われていた。
この家の最大の特徴は、平面形式である。玄関を入るとすぐに居間があり、それを中心に食堂、書斎、寝室が配される。このようなプランは「居間中心型」と呼ばれ、大正後期に成立し、昭和初期に浸透していく平面形式である。各居室は雁行に配置されることにより、二面採光が得られている。また、台所も広く明るい空間とされ、食堂との間に備えられたハッチにより、食堂、居間との連続性が配慮されている。これらの特徴は応接間などの接客空間よりも家族の団欒や住みやすさ、あるいは主婦の家事のための空間を重視する、大正期の生活改善の理想をよく表している。
建物の外観は、寄棟造り・桟瓦葺きの和風屋根と、ドイツ下見張りの洋風壁の対照が特徴である。寝室南側に備えられた照らすには、大きな円弧状の開口を持ったパーコラが設けられ、この住宅の瀟洒(しょうしゃ)な外観を一層印象深いものにしている。また、パーコラの木格子は、建物上部の回転ガラス窓と意匠的に連続している。
総じて、大正後期の郊外住宅への理想が率直に感じ取れる住宅である。

※下見張り・・・板の長さ方向を水平に張り連ねていく壁の形式を「下見」、あるいは「下見張り」という。大川邸のように、表面が垂直になるように板が張られていくものを特に「ドイツ下見」、あるいは「箱目地張り下見」と呼ぶ。

・東京都小金井市桜町3-7-1
公式ホームページ

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