志賀直哉旧居 (95 画像)
1925(大正14)年、志賀直哉は京都の山科から、奈良の幸町の借家に居を移した。彼が奈良への引っ越しを決めたのは、かねてからのあこがれであった奈良の古い文化財や自然の中で、自らの仕事を深めていきたいという希望からであった。なお当時すでに奈良の高畑に住んでいた、作曲家の菅原明朗や、画家の九里四郎など、奈良にあこがれを持っていた多くの友人たちの強いすすめによるものであった。
やがて直哉は、昭和3年、自ら設計の筆をとった邸宅を高畑裏大道に造り、翌4年、ここに移り住むこととなった。
この高畑裏大道の一帯は、東は春日山の原始林、北には春日の社を透して飛火野の緑の芝生が展開するという、静かな奈良の町の中でも特に風光明美な屋敷町で、新薬師寺や白毫寺にも近いという土地柄から、やがて多くの文化人がこの家に出入することになる。また彼の新居とその周辺は、鎌倉時代頃から、春日大社の神官たちの住んでいた社家の跡である。この古い屋敷跡の崩れかけた土塀や古い柿の木などが春日の社に調和する独特の風情は、多くの画家たちのこころひくところであったのか、画家や作家などの文化人が、彼と前後して高畑に移り住んで来た。志賀邸はこうした人々のサロンのようになり文化活動の核となったことであった。
直哉は新居の建築に当たって、彼の好みから数寄屋造りに巧みな京都の大工に依頼したが、数寄屋造りを基調にしながら、広い洋風のサンルームと娯楽室を付加している。いかにも当時流行の白樺派の面影を伝えるものであるが、古い文化と美しい自然の中に、こうしたハイカラなサロンのあったことが、奈良に集った当時の文化人たちの、心楽しいものであったにちがいない。しかしこの屋敷へと彼等の足を向かわせたのは、なんといっても志賀直哉の、高潔であり、人をわけへだてしない広い心と、高い理想を持った彼の芸術にひかれるものがあったからである。こうして彼は、当時奈良の水門町に住んでいた武者小路実篤らとともに白樺派文化の中心を奈良高畑に開花させたが、ここを中心に、関西一円の古美術行脚もさかんに行っていた。そして昭和13年東京に移転するまでの間、奈良、京都を中心とした有名な古文化財のほとんどを見て、それらを彼の心にとらえることが出来た。その間創作した作品の代表的なものは、彼が尾道時代から手がけてきた大作「暗夜行路」の後篇の完結であったが、そのほかに「万暦赤絵」「晩秋」「山科の記憶」「邦子」「豊作虫」「雪の遠足」「リズム」などの発表がある。
やがて奈良の充実した生活も、直哉の心に更なる発展を促す時が来る。奈良の古い文化や自然の中に埋没して、時代遅れになろうとしている自分を見、かつまた子供の教育を考え、東京へと居を移したのである。
その後、厚生省社会保険庁の所有となり、厚生年金「飛火野荘」として使用されていたが、学校法人奈良学園が昭和53年6月24日に買収し、セミナーハウスとして更正し、建築細部まで旧に復して、白樺派の香り高い志賀邸の面影を永く保存することになった。

●「奈良」より
とにかく、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残っている建築も美しい。そして二つが互いに溶け合っている点は他に比を見ないと言って差し支えない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名画の残欠が美しいように美しい。

・奈良県奈良市高畑町1237-2
公式ホームページ

クリックして画像を拡大





トップページへ inserted by FC2 system