鯖江藩間部家下屋敷跡(元仙台藩伊達家下屋敷跡) (1 画像)
仙台藩伊達家が大井村、現在の品川区東大井4丁目に「伊達藩品川下屋敷」を拝領したのは、2代藩主伊達忠宗(だてただむね)のときで、万治(まんじ)元年(1658)に、麻布の下屋敷を返上して拝領した。その広さは2万坪余りであった。この屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚があり、その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている。
この年、忠宗が亡くなり、伊達綱宗(つなむね)が3代藩主となった。
ところが、1660(万治3)年7月、藩主綱宗は不行跡を幕府にとがめられ、藩主の座を2歳の息子亀千代(後の伊達綱村)に譲り隠居させられ、品川下屋敷に閉じこめられるという処分を受けた。
綱宗は21歳のその年から72歳で亡くなるまで、品川下屋敷を一歩も出ることなく長い余生を送ることになったのである。
幼い亀千代が藩主になったことが、いわゆる伊達騒動の原因の一つになった。
この御家騒動は三大御家騒動として脚色され、その後の定本となる「伽羅(めいぼく)先代萩」など「伊達物(だてもの)」と呼ばれる、多くの芝居や浄瑠璃を生み出した。
大井の地に隠居した綱宗は、書画工芸、茶道、能楽などの趣味の世界に生き、絵画「花鳥図屏風」や茶杓(ちゃしゃく)など大変優れた作品が今も伝わっている。
ただし、その行状は隠居後もあまり芳しくなかったようである。
その後、5代藩主の伊達吉村の時の1737(元文2)年、大井村の下屋敷の一部約1万6千坪余りと、上大崎村に越前(福井)鯖江藩間部家の所有していた下屋敷「大崎屋敷」との交換が行われた。
幕府から拝領した屋敷を交換することを「相対替(あいたいがえ)」というが、このように屋敷地の一部を分筆して交換することを「切坪相対替」という。1855(安政2)年頃の鯖江藩主間部下総守詮勝(あきかつ)は5万石の家禄があり、上屋敷は常盤橋御門内(現・千代田区大手町)にあった。
大井村の仙台藩伊達家下屋敷は、一部を間部家と交換した結果、3000坪余りの広さとなり、ここは物資の集積所として使われた。
仙台藩は江戸藩邸に常勤している3000名の食料をすべて仙台から運んでいたが、この大井村の屋敷内に味噌醸造施設が造られると、原料の大豆はもちろん麹も仙台から運び、味噌造りを行った。
仙台味噌は伊達政宗が備蓄用として造らせたのが始まりと言われているが、この天然醸造の辛口の赤味噌を、品川下屋敷で造り、江戸詰の藩士の食用だけでなく、江戸市中にも売りに出した。
たちまち江戸っ子の評判となり、下屋敷は「仙台味噌屋敷」とも呼ばれるようになった。
明治維新後は、八木家に委任され、1902(明治35)年「八木合名会社仙台味噌醸造所」となり、現在に至っている。
この地は、昭和61年11月から63年3月にかけて、都道の補助26号線の工事に伴う発掘調査が行われ、江戸時代の仙台藩伊達家下屋敷の遺構、味噌醸造跡、伊達家の家紋「竪三引両紋(たてみつびきりょうもん)」の入った鐙(あぶみ)瓦など近世から近代にかけての遺構、出土品が発掘された。

・東京都品川区東大井4-3
公式ホームページ

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