前川國男邸 (31 画像)
前川國男邸は、1942(昭和17)年に竣工した建築家前川國男の自邸である。戦時中、建築資材が使用制限され、また、延べ床面積100㎡以上の住宅の建築が法律(「木造建物建築統制規則」1939年)によって禁止されるといった、非常に困難な状況のなかで建てられている。設計は、前川國男建築事務所による。
前川國男邸は、竣工から解体までの間をいくつかの時期に分けることができる。
まず、1942年の竣工から1945年までは、前川國男が住宅として使用していた。
しかし、1945年に銀座にあった前川國男建築事務所が空襲によって消失した後、ここを事務所として使用することになった。また、同年前川は結婚したため、前川と美代夫人の住宅としても使われていた。仕事場として居間と2階に製図台を並べ、書斎が仕事上の接客や所員の休憩の場所となった。
1954年、四谷に「ミドビル」が完成し、事務所は移転したため、前川夫妻の住宅のみの機能に戻った。
また、1956年には改修することになり、土台の補強をはじめ、南側に筋違いを入れる補強、南側丸柱を角柱に交換、台所の増築、車庫の設置といった工事が行われた。また、室内で愛犬を飼うための利便を考慮し、居間の床面はPタイルに貼り替えられた。
1973年に前川國男邸は解体され、軽井沢の別荘に部材として保存された。今回復元された前川國男邸は、この部材をもとに復元工事が行われた。外観は1956(昭和31)年に改修される前の姿に戻し、内部は昭和39年代の様子を再現している。
前川國男(1905~1986)は、東京文化会館(1961)、東京都美術館(1975)をはじめ多くの建築物を設計し、日本の近代建築の発展に大きく貢献した建築家である。1905(明治38)年新潟市に生まれ、1928(昭和3)年に東京帝国大学建築学科を卒業後、フランスに渡り、近代建築の巨匠ル・コルビュジエのもとで2年間働いた。帰国後数年で前川國男建築事務所を設立して、公共建築を中心に多くの建物を設計した。
平面計画は、吹き抜けの居間を中心に、それをはさむように寝室、書斎を置くという簡明な構成である。一方外観は、竪板張りの木材、明り障子、そしてガラス格子窓といった対称的な要素によって特徴づけられる。外観の全体的な性格は和風の延長上にあるといえるが、南側中央居間部分の90度回転できる戸袋などのディテールにユニークな手法を見ることができる。
内部空間は、5寸勾配の大屋根によってその高低差が規定されている。つまり、中央のもっとも高い部分を吹抜けの居間とし、両端に天井の低い寝室を置くという空間構成である。居間の上部はロフト風の2階としており、木製の階段によって居間と接続され、ダイナミックな空間が形成される。階段の手摺は、柔らかな手触りになるように注意深く角がとられている。2階の南側に造りつけられた棚は、居間側をひとつおきにガラス張りとすることにより、居間に対するディスプレイの役割を果たす。また2階部分の下には根太(ねだ)がそのまま露出されているが、端部のせいを減じ、重々しくならないよう視覚的な配慮がなされている。
このほか、台所ボイラー上の組格子状のデザインや扉の把手(とって)、大谷石による塀の開口部など、さりげないディテールも見どころである。戦時体制下の統制により、建築面積は小さく抑えられているにもかかわらず、豊かな空間体験を与える住宅である。

※根太・・・床板を打ちつけるために床の下に渡す横木。
※せい・・・梁、桁などにおいて長さや幅に対し、上端から下端までの垂直距離をさす。

・東京都小金井市桜町3-7-1
公式ホームページ

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