狐雲屋敷(千葉周作ゆかりの家) (7 画像)
本建築は、花山字草木沢小田に所在した佐藤家住宅を移築したもので、7代目当主の重太郎は、この地で生まれ育ち、後に江戸で最大の道場を持つにいたる幕末の剣豪・千葉周作の、剣士としての天分を認めた人といわれている。
佐藤家はもと姉歯氏の重臣であったが後に遠藤氏の家臣となり、川口村に移住、やがて帰農した。幕末期に肝入、その後村長を勤めた家柄である。
重太郎は狐雲(こうん)と号し、仙台藩郷士の職にあったが、痘瘡にかかり醜い顔となったため、職を辞しこの住宅で隠遁生活を送っていたが、読書や刀剣鑑定に優れ、人徳も厚く、多くの人と親交を持っていた。
その中のひとりに、周作の父幸右衛門がおり、その縁で周作も狐雲と知り合うようになり、その影響で四書五経を学び、大いに心を鍛えることができた。そのことが、後に剣の道へ進んだ千葉周作の、心技一体の基礎を築いたといわれている。1809(文化6)年、千葉一家が江戸へ出立前にここに立ち寄り、周作は狐雲から「備前國住長船祐定作、永禄十三年八月作」と刻まれた愛刀を贈られた。 また、建築的には当地方でもまれな、18世紀末以前のものと推定され、極めて貴重なものであり、平成5年12月1日に、有形文化財に指定されている。
この建物は、桁行20.37m(10.5間)、梁間11.64m(6間)、木造平屋建、片入母屋作、茅葺形銅板葺(もと茅葺)である。
上手に、前座敷から成る客座敷を、その裏に納戸をとり、つづいて前面に中の間を、背面に茶の間(常居)を配した5間取で、下手には広い台所、庭を設ける。下屋柱上に渡した繋ぎ梁(投げかけ梁)上に束(つか)を建てて4間の扠首梁(さすはり)を載せる。扠首梁の中央を上うし梁が支承。台所庭の部分ではこの上うし梁の約6尺下を下うし梁が走り、土間庭の裏側に建つうしもち柱に柄(ほぞ)差しで結合する、開口部、間仕切りに柱が1間ごとに建ち開口部には古式の3本溝の鴨居、敷居が用いられ内雨戸で、座敷廻りには濡れ縁を設ける。1間の柱間寸法は6.4尺。
建築年代は不詳であるが、その平面形状、柱間寸法、架構(かこう)手法などからみて18世紀後期頃、約230年前後を経た古民家で、この地方の上層民家の特徴を伝えた大型民家の典型的遺構と考えられ、住宅史上、民家史上貴重な存在である。
この文化的価値のある「狐雲屋敷」では、その内部を一般に開放し、千葉周作に関する展示をおこなっている。

●千葉周作の人間像
周作は、面長で眉が秀で、切れ長の目に、鼻は高く、身長は6尺(約180cm)もある立派な体格をしていた。左右の手を下げると膝におよぶほど長く、大の字に寝ると、2畳間の四隅に達したといわれている。少年の頃から人一倍、負けん気が強い性格と伝えられており、このような逸話が残されている。

少年の頃のある日、武家の矢場で周作が数人の若侍が弓術の練習をしているのを見学していたところ、一人の若侍が寄ってきて「お前も弓が好きか。」と聞いてきた。その態度高慢無礼であることに周作は腹を立てたが、冷静に軽く一礼すると「少々は心得ています。しかし拝見すると、あなた方の腕前ではいざという時に役に立ちますまい。」と返答した。
これを聞いた若侍は真っ赤になって怒った。
「それほど大言を吐くなら、俺達の矢面に立ってみるか。物の役に立つか、立たぬか見せてやろう。」
周作はにっこり笑って、手に木剣を提げて矢場の真ん中に突っ立った。
それに対し若侍達は、強弓を引きしぼって次々と射始めた。周作は少しも慌てず、次々に矢をかわし、あるいは打ち落としていった。
やがて矢種がつきたのを見すました周作は、「御無礼の段、何卒お許しを。」と丁重に挨拶して矢場を立ち去ったという。

剣術家として一流であったばかりでなく、文人としても多くの作品を残している。文学を好み、護国を漫遊する毎に必ず日記をつけ、それが数巻にもなるほどだった。また、和歌、俳諧、狂歌をたしなみ、どんなに忙しいときでも、興が乗ると即興で歌を吟じたという。

・和歌
はる風や ゆきかふ旅の 箱根山 片山は晴れ 片やまはふる
思わじと 思へばまさる 起ふしに なほ思はるゝ 君かおもかげ

・俳句
吹風に すゞみしまゝの 無想剣
草むらや 秋を吹だす 夜半の虫

・狂歌
打死と どうせかく碁の 勝負にて かう白くろの 目ももたれまし
春風や 駕籠のすだれを 吹上げて はなぞちりこむ 東路の旅

・宮城県栗原市花山草木沢原井田40-7
公式ホームページ

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