山縣有朋記念館(古稀庵・旧山縣有朋別邸) (36 画像)
●記念館
この記念館は、明治の元勲・山縣有朋が経営した「山縣農場」内にある。
当初は、小田原の古稀庵内に明治42(1909)年伊東忠太の設計により建設されたが、大正12(1923)年の関東大震災で倒壊したため、翌年、有朋の長男伊三郎が現在地に移して再建したものである。
木造2階建ての外観は、純然たる洋風建築であるが、ほとんど装飾のない簡素な造りである。
しかし室内は、階段室や2階の居間を中心に、当時の邸宅建築の水準を示す質を備えており、なかでも、山縣有朋のY・Aをアール・ヌーヴォー風にあしらったドアのデザインは印象的である。

●山縣農場
山縣農場は元来第三種官有地で12ヶ村の入会地であった。天然林約150町歩、草山600余町歩の山野を、子爵渋沢栄一が牧場経営を計画し、1880(明治15)年頃払下げを出願したが実現出来ないまま、これを公爵山縣有朋が譲り受け、1894(明治19)年正式に払下げとなり、以来移住者を受け入れて開墾と植林に力を注いだ。有朋のイデオロギーである「農は国家経済の基本」を自らこの地で実践しようとしたものである。又、有朋は明治初年に数度ヨーロッパへ渡り、英仏独を歷有志、国情を具さに視察した折りに、ヨーロッパ諸国では旧領主や貴族が安全確実な基本財産として森林を育て、世襲で保有している事に着目し、その実現を高山山麓のこの地に夢をかけたのである。
そしてそこで働き生活する農家の人達や地域の人々の良き指導者であるために、農場主もそこに居を構えて土地や住民と親しむ事が領主の責任であるというヨーロッパ風の考え方を採り入れ、理想のプランテーションを作り上げたのである。

篠原も 畑となる 世の伊佐野山 みどりにこもる 杉にひのきに
庚戊の夏伊佐野山開墾地にて  有朋

●開墾と移住
前記の有朋の詠んだ歌のように篠の生い茂るばかりの荒地を水田と畑に開墾し、雑木山を植林して生産性のある農場に育てるために、1884(明治17)年移住農家を招致するための規則を作り、農家の次三男で土地を持てない人達を募集した。その結果、栃木県内外から44戸300余人が当地に移住して開墾事業に取り組んだのである。
その際取られた措置のいくつかを挙げると、
(1)希望すれば年36日、3年間続けて農場事務所の賦役に従事すれば無償で1.7ha(内0.7haは水田に適した土地)を贈与する。
(2)子弟には義務教育を受けさせ、成人して一家を支える能力がある人には小作権をつけて一戸を設立させる。
(3)福利の増進のため、肥料等の共同購入資金を貸し付けるその利子は、各人の名儀で管理者が管理し、一定額に達した時に各人に贈与し各々が農林資材購入などの基金とする制度を設けた。
(4)村関係の寄附金、字費等の割当ての一部又は大半を農場主が負担して各人の負担を軽減する。
以上、当時の記録をあげたにすぎないが、新しいプランテーションを築くために、移住してきた人の独立を促し、それぞれの生活を確立することを優先とし、又、農場主との結び付き、親子のような絆があってこそ開墾、造林という困難な事業の成功と、山縣農場の基盤が出来上がるという理念であった。

●自作農創設
1934年、山縣農場創業50年に当たって記念として小作人に土地を下表のように分譲した。これは開設当時より、有朋が計画した事であり、その遺志を継いで3代有道が行った業績である(1937年の記録)。

施田①自己資金による分譲反別②自作農創設資金による分譲反別分譲価格
町7 反5 畝2 歩13町21 反8 畝1 歩27①7,507円48銭 ②22,610円38銭
町2 反9 畝1 歩12町15 反8 畝7 歩6①1,007円8銭 ②5,968円6銭
山林町1 反8 畝7 歩22町1 反7 畝3 歩13①345円12銭 ②528円43銭
町21 反3 畝1 歩17町39 反4 畝2 歩1637,966円55銭

自作農創設資金は24年の年賦償還で、資金借入れ者は「自作農創設資金償還組合」を作り、推薦によって農場管理者が組合長となって推進して好結果を上げた。
現在の矢板市大字上伊佐野、下伊佐野、平野の区域にまたがる耕地と山林が旧山縣農場であり、字名として「第一、第二農場」として残っており、創業以来100年を経た今日もその姿を留め、地域の絆も深い。
    
●戦後の歩み
自作農創設事業のおかげで、本農場は戦前に農耕地の殆どを分譲したため、戦後の農地改革の影響を蒙ることなく、傾斜度の強い山林(造林地と薪炭林)が残り、4代有信がこれを継いだ。
戦中戦後の乱伐のために荒れ果てた山を再建すべく植林10ヶ年計画を建て、まず1950~1959年を第1期として全力を挙げて杉、桧苗を植林した。
当時は山村の労働力も豊富であり、村の働き手の殆どを導入して山作りに励んだ。第2期の1960~1969年は日本の国情も「戦後」から高度成長期にさしかかっている時代で、植林事業も量よりも質を重視して、栃木県内外の優良銘柄苗を導入、又、挿穂苗もこの頃より取り入れ、良質材生産を県内でいち早く始めたのである。
現在人工林率91%を占める造林地の殆どは、この20年間に植林した山林であるため、6令級以下の林分が75%を占めているが、創業時に植林した山も残っており、今日の林業経営の基礎は100年に亘る山林の歴史の流れの中で築かれたものである。

・旧所在地:神奈川県小田原市板橋827 古稀庵跡
・栃木県矢板市上伊佐野1022
公式ホームページ

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