楫取素彦茶室(広厳寺) (14 画像)
楫取素彦は1829(文政12)年、萩藩医松島瑞蟠の次男として萩に生まれた。萩藩の海軍局頭人をつとめ、禁門の変後の第一次長州征討により斬首された松島剛蔵の弟。12歳の時に萩藩の儒者小田村吉平の養子となり、小田村伊之助と名乗った。藩校明倫館で儒学を講じ、1853(嘉永6)年吉田松陰の妹寿(ひさ)と結婚した。松陰の再入獄後は後継者として、松下村塾でも指導にあたった。1865(慶応元)年の四境戦争(幕長戦争)では幕府側との交渉にあたり、1867(慶応3)年藩命により楫取素彦と改名した。
1876(明治9)年初代群馬県令となり、1884(明治17)年まで蚕糸業の振興や教育の充実に尽力し、名県令として慕われた。1881(明治14)年寿と死別後、明治16年に松陰の妹で久坂玄瑞の未亡人文(ふみ・美和子)と再婚した。その尾、元老院議官、宮中顧問官、貴族院議員なり、正二位勲一等男爵に叙せられた。1912(大正元)年沒、享年84歳。
広厳寺の本堂の裏には、1937(昭和12)年に楫取素彦旧宅から移築されたという茶室がある。本席は4畳半、床の間・床脇1畳半、竿縁天井で、水屋は3畳、押入1畳、網代天井である。茶室外側の脇障子上部の透かし欄間は、楫取家の家紋花菱をあしらった装飾が施されている。楫取素彦の旧宅地は、広厳寺から650mほど東側に行った旧石州街道沿いにある。

●楫取素彦旧宅跡

・山口県萩市大字椿東松本市2288

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