木村邸 (24 画像)
源頼朝の時代より明治維新まで700有余年の歴史を有する岩村城であるが、近世の城下町が形成されたのは江戸時代の初め松平家乗が入城してからである。岩村藩校知新館が設立されて文教藩として名高くなったが、経済面では東濃一の城下町が存在し、町人街の経営を担ったのが問屋であった。
木村家は江戸時代中期から末期に栄えた問屋(後に御用達職を兼ねる)で、先祖は三河国挙母藩(現豊田市)の藩士出身、1638(寛永15)年の藩主丹羽氏信転封の際に随行してきた。弥五八の名を世襲し8代目で明治維新を迎えている。苗字帯刀、士分待遇の家柄で時に応じ藩の財政を支え、新田の開発や災害の救援、文化各面の発展に大きな貢献を果たしてきた。
天保の藩政改革では額の出費をうながされ、その後は酒造業などで家計を補強しつつ、維新を迎えることになった。
代々の当主は文化人との交流が多く、八橋売茶も当家に長く逗留し。8代目知周は佐藤一斎とは特に交流が深く、知周の墓石の碑文は一斎が記している。岩村藩主もしばしば当家を訪問している。
木村邸は江戸時代の町屋としての様式をよくとどめた城下町の歴史をしのばせる建造物で町の文化財に指定されている。
母屋の建造年代は明確ではないが、18世紀後半の頃と推定されている。
平入の前面格子造りで武者窓といわれる小窓がついており、奥行深く土間部と居室部とに分かれた片側住居である。書院棟はあとからの増築と見られる。
当初は表側にだけ2階があり、中の間、奥の間上部の2階や中3階は小屋組改造時に付加されたものである。このとき棟高を上げて屋根を板葺石置きから桟瓦葺に改めているが、当初の棟木・母屋や下方の小屋組はそのまま残されており、有力町人の邸宅としての構造を今に伝える優れた遺構(建造物)といえる。
かつては主屋に接した西側端に薬医門があり、藩主出入りの玄関も設けられたと伝えられている。
また母屋背後の敷地内には四戸前の土蔵と酒造蔵の一部が残されており、1863(文久3)年の棟木墨書から城山の材木を拝領して建てたものであることが分かる。

・岐阜県恵那市岩村町329-1
公式ホームページ

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