菊屋家住宅 (74 画像)
●菊屋家の沿革
菊屋家は摂津国(大阪)住吉大社の、津守摂津守国量(くにかず)朝臣を祖とし、中世期大内氏に随身して山口に住み、同氏滅亡後は武士を捨てて町人となった。
その頃、山口48町の惣町支配を勤め、1569(永禄12)年大友宗麟の後押しで大内輝弘が山口に乱入した時は48町の人を連れ、高嶺城にたてこもって防戦に功があり、毛利元就から感状をうけた。また毛利輝元が関ヶ原の戦いの直後、京都伏見から広島へ帰る路銀が不足していることを聞いて急場の難を救ったこともある。このころまでは津守姓であったが、のちに石川姓・菊屋姓に改めた。 1604(慶長9)年輝元の萩入国に従い、現在地に屋敷地を拝領して家を建てた。また城下の町割りに尽力し、阿古ヶ浜には藩士や足軽衆のための家を建てて住まわせたので、それより世上阿古ヶ浜を菊ヶ浜と称するようになった。その後、菊屋家は代々大年寄格に任命され藩の御用達を勤めた。
また度々、御上使の本陣を命ぜられ、その他御究(きわめ)場所・恵民録役所等しばしば藩の御用宅に借り上げられていた。

●菊屋家の建造物
国指定重要文化財建造物としては、主屋・本蔵・新蔵(金蔵)・釜場・米蔵の5棟がある。
主屋は家に残る古文書や言い伝えから推定すると、1604(慶長9)年に敷地を拝領して慶長11年に家が出来上がり完成祝に輝元を招待しているため、その頃のものと思われ、現存する町屋では全国でも最古に属する建物である。
蔵その他の附属屋は屋敷構の一環として重要であり、書院・長屋門も往時の姿に復元し、大型町屋の機構を整備した。

・山口県萩市呉服町1-1
公式ホームページ

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