加納家 (8 画像)
加納家は主屋、土蔵、浴室・便所、はなれから建築年代を示す棟札や墨書等は発見されておらず、建築年代等の特定はできていない。
現在の姿は当初の姿とは異なるが、1831(天保2)年ごろから加納家が住み始め、約180年間以上この地にあったと推定される。
当初は間口6間、奥行6間で、岩村の町家に見られるような約3寸勾配の板葺石置屋根であったと推定される。1階は真ん中の2間が通り庭で、その南側が作業場、北側が居住空間、2階は通りに面した部分のみ、という平面計画であったと推定される。
その後、北側に間口1間を増築し間口7間、奥行6間となった。明治中頃までには、板葺石置屋根から現在の勾配の瓦屋根になり、漆喰で曲線に仕上げられた壁の傾斜窓になったと推定される。小屋組は、棟を上げているが、旧棟木は残されており、主要な構造材(柱・梁等)も当初のまま残されている。
透かし彫りされている土台上の蹴込み板の橘と丁子は、加納家の家紋である、丸の内橘・丸の内二つ丁子をデザインとして取り入れたものである。

●初代当主・加納伝左衛門
初代包房(かねふさ)は、土岐郡萩原村(現瑞浪市)の出身である。2度改名しており、加納平七包房から、茂七に、最後に加納伝左衛門となった。1814(文化11)年に岩村藩主松平乗保に御旗長柄之者に三石弐人扶持で召し抱えられ、1831(天保2)年12月6日鉄砲製造を命じられたが、長屋が手狭のため返し、鉄砲製造ができる借宅をいただきたく願い出たところ了承された。1839(天保10)年5月27日鉄砲製造を仰せつかり、精を出し百匁筒の鉄砲を製造し直ちに届けたところ、下目付に取り立てられ、御加米三斗都合三石六斗となった。1841(天保12)年12月28日、28年間勤めた職務を解任され、1845(弘化2)年3月27日病死。

●2代当主・加納冨右衛門
初代包房の次男で鉄砲鍛冶としては2代目に当たる。
冨右衛門は初め兼次(かねつぐ)といい、三人組に雇入られ、1839(天保10)年に鍛冶手伝いを始め、用立金1両2分を受けたとされる。1846(弘化3)年二人扶持となり、泉州堺(現大阪府堺市)へ大筒鍛冶の修業に1年間の出張をした。冨右衛門の兄仁平も、父伝左衛門の鉄砲鍛冶を継いでいるが、その後同心になった。「細工元入用日数覚帳」には、包房工房(鉄砲工場)に出入りした鍛冶職は、土屋鉄治房光、加納鉄平芳房、中根鉄助清治、中嶋鉄蔵清光、加納鉄六房治の名が、父伝左衛門包房、兄才次清房の名とともに記録されている。市指定の鉄砲には「加納冨右衛門清房造之」の銘が入っている。

●5代当主・加納睦久
睦久(ちかふさ)は、1919(大正8)年に善三郎の長男として岩村町で生まれ、その後洋画家として美術団体等迦会委員などを歴任し、郷土の情景などを中心とした優秀な作品を生み出した。

・岐阜県恵那市岩村町851-1

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