会水庵 (6 画像)
会水庵は、宗徧(そうへん)流の茶人山岸宗住(会水)が施主となり、新潟県長岡市に建てた茶室である。1927(昭和2)年には山岸家の東京移住に伴い吉祥寺に移築された。吉祥寺には15畳の所員、9畳の広席のある邸宅と、茶室会水庵があった。1957年劇作家の宇野信夫が会水庵と腰掛待合、蹲踞(つくばい)、灯籠を買い取り、西荻に移築した。復元に際しては、水屋の位置など可能な限り吉祥寺時代に戻し、また建物はもともと主屋に接続していたので、西川家別邸に付ける形とした。露地については面積上の制約から形を変え、腰掛待合の部材の一部と蹲踞、飛石の一部は従来のものを活用した。
山岸会水は新潟県長岡市真照寺の出身で、本名を晋該(ふがい)という。30歳代で茶の湯、立花(りっか)、能(謡)に親しむ。長岡では、江戸時代から、藩主の茶道が宗徧流であったため、会水も宗徧流を習う。庵号は長岡にある合水(あいみず)城よりとられた。
会水は板谷波山に陶芸を奈良井、吉祥寺の自宅に窯を設け楽焼きの茶碗や花入を作った。また、絵画を瀬尾南海に学び聴雪という名で茶掛の絵を描き、茶室や露地の設計も行った。武蔵野女子学院の紫芝(しし)軒もその一つであるが、今はその面影はない。宗徧流家元顧問となり山田宗有(そうゆう・8世)を助け宗徧流の興隆に努めた。久田流藤井景保(けいほ)、速水流小西松渓(しょうけい)ら茶人や、金春流桜間弓川(きゅうせん・金太郎)、安田善次郎、堆朱陽成(ついしゅようぜい、乾漆・堆朱)、赤塚自得(蒔絵)、香取秀真(ほつま)、大西良慶など各分野の名士と幅広い交流を持った。1954(昭和29)年11月、89歳で亡くなった。
山岸邸は第二次世界大戦中、住友金属に買い取られ、会社の寮として利用された。その後、更地にするため、家屋や樹などが個々に売りに出されたうちから、宇野信夫が茶室を入手した。宇野は、6世尾上菊五郎と交友を結び歌舞伎の脚本を手掛ける一方、テレビドラマの演出なども行った。
この茶室は三畳台目と勝ってからなる。床が下座になる下座床で、床柱は赤松の皮付きである。点前(てまえ)座の二重釣棚の釣竹が、2枚の棚板を貫きとおしているのは、他に例を見ない。中柱(台目柱)に曲がりのある竹を用いているのも珍しい。内壁は木鏝(ごて)を使い、波を打ったような引きずり仕上げとなっている。天井はノネ板の平天井である。小間の茶室では下地窓に皮付葭(よし)を普通使用するが、ここでは萩を使っている。
勝手には水屋、棚、丸炉がある。水屋は移築時は東西に長く付いていたが、部材の痕跡から南北についていたことが判明したため、旧に復した。
桟瓦葺の屋根と銅板葺きの庇が大正から昭和にかけての茶室の特徴を表している。貴人(きにん)口と躙(にじり)口の二方に土間庇がでているため、ゆったりとした雰囲気を醸し出している。 西川家別邸の玄関前より飛び石を踏み猿戸を通り露地に入る。露地には腰掛待合と蹲踞、灯籠、塵穴を配し、通路との境は建仁寺垣、庭との境は四つ目垣とし、吉祥寺時代にあった南天の木を植えた。蹲踞に灯籠の屋根を、飛び石に佐渡の石臼を陥るなど数寄者としての工夫も見られる。

※三畳台目・・・本畳3枚と台目畳(本畳の3/4の長さ)1枚からなるものを三畳台目と呼ぶ。台目畳は点前畳として使用される。

・東京都小金井市桜町3-7-1
公式ホームページ

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