海気館跡 (5 画像)
明治21年、稲毛海岸の松林の中に、海水浴保養所として海気館が開業した。森鷗外、島崎藤村をはじめ多くの文人が滞在している。
建物は跡形もないが、稲毛公園の松林は当時の面影を伝えている。

昭和29年3月3日、稲毛海岸を訪れた永井荷風は、「断腸亭日乗」に「海岸の間に松林あり。松林に小祠あり。浅間神社なるがごとし。房総の山影歴々たり。」と記している。
安産、子育ての守護神として知られる浅間神社の境内には、俳誌「原人」を主宰、戦後長年にわたって千葉市助役をつとめた平山独木の句碑、「踏みくだる 落葉のいのち ひびきけり」が建っている。

この浅間神社につづく広い松林の中には、かつて「海気館」があった。景勝の地に建てられた、別荘式のこの旅館には、著名な文人墨客が小説執筆のため、また静養に訪れて滞在している。
明治21年に開業した海気館は、明治24年に発行された「千葉繁昌記」に、
「葉街の西三十余丁、花見川の東二十餘丁、稲毛の里に淺間の森と稱する風致官林あり、地勢高敞、松樹連翠、下は則白砂、白砂尽て海面、海面盡くる所、富岳魏然たり、左顧すれば房総の諸山羅列して語らんとするものの如し、布帆常にその間に往来す。其佳致名状すべからず、一回之を過る者其佳致を賞せざるなし、實に我総州の一勢地と云ふべき也。
明治二十一年、其等設計して此地の拝借を官に請ひ許可を得て海水浴場を設け、林中地を択て客室數棟を建て、以て一大遊興の新天地を開きたり。爾後年余、某等故あり葉街加納楼主人の手に全般を移せり、主人頗る社会学に長ぜり、奮発して資を投じ屋舎を増築せり。(略)」 
と書かれている。

また「風俗画報―名所図絵―」には、海気館に遊んだ佐佐木信綱の歌、
「春の頃稲毛の海気館にて
千葉の海の 沖の遠浅 潮ひきて かひ拾ふ子の かすそしられぬ
同じ処にて秋のすゑに
松蔭に よりそいなから かたらへは 波の音さむく 月かたふきぬ」
が紹介されている。

自由律の俳人で、ジャーナリストの河東碧梧桐の名著「三千里」は、3年半にわたる全国行脚の大旅行日記だが、明治39年8月6日、稲毛の海気館に宿泊、のんびり潮干狩をするところから始まっている。
「海桜の 涼しさついの 別れかな  碧梧桐」

同じ明治39年9月6日には、森鷗外が宿泊、書簡と母堂日記から類推すると、9日まで滞在したようである。母堂日記に
「九月六日 当月三日より林太郎は検閲にて、毎日宮様の御供にて、所々に行。けふも朝六時に行。今晩イナゲとかに行。九日帰るよし」
とあり、鷗外自身の留守宅あてのはがきに、
「校正刷到着 九月八日夕 於稲毛海気館 林太郎」
と認められている。
鷗外は大正6年に発表した新聞小説「細木香以」で、千葉氏の白旗八幡付近の漁村を描いている。細木香以は、幕末のころ江戸で酒屋を営み、諸侯御用達などを勤めていた豪商。文人や芸人に知己多く、自らも芝居を書き、俳句を詠んだ。一時は今紀文といわれたほどの通人で、遊所通いに明け暮れ、吉原の名妓濃紫を見受けして女房にしたが、没落して千葉市の漁村に退隠する。小説では香以と江戸の力士とのエピソードが綴られている。香以は芥川龍之介の大叔父にあたる。

島崎藤村が、海気館を初めて訪れたのは、明治41年9月16日。二葉亭四迷の勧めで、東京朝日新聞に初の連載をした「春」が完結、これを自費出版するにあたって、挿絵を和田英作に依頼するため(新聞連載時の挿絵は名取春仙)、海気館滞在中の和田を訪ねたのである。
藤村はこの年12月にも海気館にも滞在しているが、この時に執筆した短編「一夜」は「中央公論」の翌42年1月号に発表された。
2年後、明治43年8月6日、海気館に滞在していた藤村は、妻危篤の電報を受け取り急ぎ帰宅する。この日の午前10時に四女柳子が誕生したが、妻の冬は午後6時ごろ産後の出血のため亡くなった。31歳だった。

明治41年、千葉市に公園に来て海気館に宿泊した田山花袋は、宿の女中から聞いたというユーモラスな話を、短編「弟」(新潮、明治41年4月)にまとめている。
『別荘式の小さい家屋が彼方此方松原の中に独立してゐて、なんだか好い感じがする。
この海気館に、ある日40過ぎの実業家か銀行員とでもいったふうな男と、どうも細君らしくない「二十二、三、色の白い、眼のぱっちりした、やせすぎな、背のすらりとした佳い女」がやってきた。一泊した翌朝、男は女を残して帰る。
女の美しい姿が、松原から松原を越えて、秋の晴れた海岸の路を静かに逍遥するのを多くの人々が見た。潮の引ゐた海は遠くまで洲を顕はして、紫色した富士が夕照の上にはっきりと見える。』 と、花袋は稲毛の風光を描いている。その夜、女は手紙を書き「弟へあてて書いたのです」と女中に速達を頼む。それが、とんだ弟だった…。

有島武郎は、大正10年6月13日から19日まで滞在、「星座」の序編にあたる「白官舎」100余枚を書き上げている。14日付で与謝野晶子あてに、
「此雨をおいとひになりますか、私は毎日なでるように愛でてゐます。書きものの為めにここに来てゐます。消印がそれをあかすかも知れませんが、私の筆はそれが何処であるかをお知らせせずにおきませう」
と書き、さらに海気館から帰京後に「千葉の町に一朝薬をのみに行って心を打たれるものを見ました」と書き送っている。
それは千葉神社を訪れた有島が、境内にあった焼残りの木彫の見事さに驚いてのことだった。信州諏訪の名工立川和四郎の作品と分かるが、かねて実弟の里見弴を通して中村吉右衛門から一幕物脚本の依頼を受けていた有島は、この彫刻をヒントに、千葉神社を舞台にした戯曲「御柱」を書き上げた(白樺、大正10年10月)。

大正期の海気館は、里見弴の「おせっかい」とその門下の新進作家中戸川吉二の「北村十吉」に登場する。
「イボタの虫」をひっさげて大正文壇に踊り出た中戸川は、同じ里見門下で鴨川出身の吉田富枝と熱烈な恋に落ち、師に内緒で逢引を重ねる。二人は海気館でしのび逢い生活をつづけるが、金に困って出版社に原稿を送ったことから居所がわかり、里見に旅館に踏み込まれる。
これらのことを、師弟別々に小説に書いたのが「おせっかい」(人間、大正11年1月~新潮、大正11年4月)と「北村十吉」(国民新聞、大正11年4月~10月)である。
中戸川は「北村十吉」で、
「広い松の生えた庭の中に、ポツポツと建ってゐた。六畳と八畳の家で縁側や便所や洗面所が普通の家のやうについてゐる。」
と、当時の海気館を書いている。

昭和9年、海気館に滞在した林芙美子は、「追憶」(新潮、昭和11年5月)と「女の日記」(婦人公論、昭和11年1月)で、稲毛の海を描いている。
「白い土埃の多い町で、喉がひりひりするやうな潮臭い風が吹いてゐた。海辺の松並木のそばの、海気館といふのに這入って、また飯をたべた。」
「追憶」の一節だが、画家と子持ちで年上の海軍軍人の未亡人が、2年近く続いた情事の清算を、二人が初めて結ばれた「追憶」の宿でつけようと、海気館で落ち合うところから始まっている。
「白い午後の陽ざしが松並木に縞になってさしてゐる。小さい白い船が波の上を風に吸はれるように行ったり来たりしてる。」
と芙美子が「追憶」で描いた風情は、もう小説の中でしか訪ねることはできない。

野田宇太郎の「新東京文学散歩続篇」によると、このほか徳田秋声、上司小剣なども、海気館に滞在しているという。
徳田秋声は昭和16年に未完の名作「縮図」を執筆しているが、この小説のヒロイン銀子が大正5年に初めて芸者に出たのが千葉市の花柳界「蓮池」である。銀子は千葉医専(現千葉大医学部)出身の医学士と恋仲になるが、ふとしたことから別れ、のちに、みちのくの花街へ移っていく。

民衆詩派の詩人白鳥省吾は、昭和30年から48年に亡くなるまで、市内小仲中台町に住んだ。省吾に「稲毛の浜」と題した詩がある。昭和7年に千葉市教育会が発行した小学校副読本に掲載されている。これより先、昭和4年に現在も歌われている「千葉市歌」の公募があり、審査員として、省吾は1位入選作(落合栄一作)を補筆している。
「稲毛の浜
稲毛の浜の秋に友と来て海に沿うた街道を歩いた。街道に沿うて家が並び、家の後に松山があった。

私達は松山にのぼり松の美しさを賞めた。そして東京湾を眺めて遠くに富士山を見つけた。

春は潮干の貝拾ひ 夏は海水浴に賑ふ 稲毛の浜の季節ごとの面白さ 私はいつかまた来たいと思った。」

稲毛海岸4丁目に、翼をひろげた形の民間航空発祥地記念碑が建っている。明治45年、民間の国産機による初の飛行に成功した奈良原三次男爵によって、稲毛海岸院民間飛行練習所が開設されたことによる。
大正5年1月8日、伊藤音次郎が恵美号を操縦して、夜間、銀座の東上空から浜松町の上を回って帰来したが、民間初の帝都訪問飛行だった。民間航空の先覚者たちの業績、エピソードは、稲垣足穂が昭和3年に書いた「ヒコーキ野郎たち」にくわしい。足穂は戦後しばらく、市内院内町に住んでいる。なお、平成元年4月、稲毛の浜に千葉市民間航空記念館が設立された。

有吉佐和子の初期の短編「海鳴り」(新潮、昭和33年9月)は、稲毛海岸が舞台。主人公の一木音彦は、かつて稲毛に住んでいた蔵相・日銀総裁・東京市長を歴任した市来乙彦がモデルであることがわかる。
「白い貝殻が落ちている。拾い上げて耳に当てた。水平線の向うは波が高いのか、遠く空を打つ海の音が聞こえて来た。」
小説のラスト・シーンである。戦後の稲毛海岸は内田百聞の「房総鼻眼鏡」や松本清張の長編犯罪小説「連環」などにも描かれている。

稲毛海岸につづいてた、かつての千葉海岸、登戸町には、昭和の初めに劇作家の三好十郎と作家の原民喜が住み、ともにこの地で愛妻を亡くし、失意のうちに去っている。
日本の新劇史に大きな足跡を残した三好は、千葉海岸と登戸の自宅を舞台に、代表的戯曲「浮標(ぶい)」5幕を書いた。原は昭和20年1月まで10年余を過ごし、故郷広島市に帰って原爆に遭う。被災体験を綴った「夏の花」は、名作として知られている。

日本のランボーいわれた中原中也は、長男の死後精神に錯乱をきたして、昭和12年、市内千葉寺町の中村古峡療養所(現・中村病院)に入院しているが、
「沈みゆく夕陽いとしも海の果て かがやきまさり沈みゆくかも」
と、この高台の病院で、千葉の海を詠んでいる。

昭和30年代後半に入って、湾岸の埋立てが始まると、入江のなぎさにつづいていた国道が広い大地の中に包まれて、いまは一大ニュータウンに変容した。

・千葉県千葉市稲毛区稲毛1-9

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