小林一茶寄寓の地 (35 画像)
江戸時代の俳人小林一茶(1763~1827)は、人生の多くを旅に過ごした。西国行脚から江戸へ帰ったころ、派内に起きた勢力争いに巻き込まれ、一枚看板の「二六庵」の号を剥奪された一茶は、他派の大家であった夏目成美や伊勢派の鈴木道彦らとの交流を深め、また、利根川すじの布川で回船問屋を営む古田月船(げっせん)、守谷の西林寺の住職鶴老(かくろう)など、流山を含む下総地方の俳友達に俳句を指導したり、情報交換をしたりして、生活の糧を得ていた。
流山で一茶と親交が篤かったのは、醸造業を営み、味醂の開発者のひとりと言われる、5代目秋元三左衛門である。三左衛門(1757~1812)は、双樹と号し、実業の一方俳句をたしなみ、経済的にも一茶を援助していた。一茶は、1803(享和3)年から1817(文化14)年の15年間に、50回以上(その内、双樹が亡くなるまで秋元家には実に48回)も流山に来たことが、句帖や日記からわかっている。
双樹も一茶に離れ座敷を与えたと言われ、家族同様に扱っていた。一茶の手紙の発信・来信の控えある「急逓紀」によると、一茶と双樹の間の文通、比較の多さも他から際立っている。
一茶と双樹の関係は、俳人と商家の大旦那というだけでなく、真の友人であったことがしのばれる。
流山市教育委員会では、この地を一茶と双樹が親交を深めた、流山市にとって由緒ある土地として、平成2年12月4日付で、流山市指定記念物(史跡)第1号に指定し、一茶双樹記念館として整備した。安政期の建物を解体修理した双樹亭、枯山水の庭園、流山で味醂の生産が最も盛んであった時代を再現し、展示を行う秋元本家、茶会、句会などに利用できる一茶庵がある。

●秋元感義(俳号・双樹)
秋元家5代目の当主である。春雄(4代目秋元三左衛門)とその妻茂登の間に生まれた感義は、1782(天明2)年春に父とともに、今では馴染みの白みりんの醸造に成功。白みりんを開発したひとりと言われている。
また、感義は当時江戸で文化の粋を極めていた俳諧道や書道に精進しており、いつ頃からか、俳号を「双樹」と名乗っていた。

●小林一茶
小林一茶は長野県の柏原宿(現信濃町)に生まれ、本名を弥太郎と言った。
一茶は3歳のときに母を亡くし、新たな働き者の義母とはなじめず、15歳で江戸に奉公に出された。それ以降約10年間、江戸で何をしていたのか、その記録は今のところ発見されておらず、一部の言い伝えによれば、馬橋で油屋を営む俳人大川立砂(りゅうさ)の家に奉公していた時期もあったといわれているが、20歳を過ぎた頃に俳句の道を目指すようになり、葛飾派3世の溝口素丸らに師事して俳句を学んだ。
当時、北総地方には、悠々自適の境地を楽しもうという、俳人山口素堂の一派である葛飾派の俳人が多く、立砂もその一人で、一茶もはじめ葛飾派に属していた。流山の秋元双樹とも、立砂を通じて知り合ったと考えられている。
29歳で一度ふるさとに帰った後、30歳から36歳まで関西・四国・九州の修行の旅に明けくれた。39歳のときには、再びふるさとに戻り、病に罹った父の看病をしたが、1ヵ月ほどで父は亡くなり、その後10年以上にもわたって継母・弟との財産争いが続いた。その間一茶は、江戸蔵前の札差夏目成美の句会に入って指導を受け、また一方で房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計を立てていた。貧しい暮らしだったが、俳人としての一茶の評価は高まった。
50歳でふるさとに戻った一茶は、遺産交渉を重ね、翌年ようやく和解し、その後、28歳のきくを妻に迎え、4人の子どもが生まれたが、いずれも幼くして亡くなり、きくも37歳の若さで亡くなってしまった。再々婚し、一茶の歿後、妻やをとの間には次女やたが生まれた。
一茶の人生は苦難の連続だったが、句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」、句集「おらが春」などをあらわし、2万句にもおよぶ俳句を残している。

●流山のみりんと秋元家
みりんは味淋・味醂などと書き、蒸した糯米に焼酎と麹を混ぜて醸造した酒である。
みりんのような酒の起源は、奈良時代にあると言われているが、焼酎を原料にしたのは室町時代からである。
みりんについて、「飲料ニ供シテ能ク滋養ノ功アリ食物ニ調和シテ甘味ナラシム」と、1877(明治10)年の「味淋取調書」にある。現在では調味料として主に用いられているが、現在はほとんど調味料として使われているが、かつては甘い酒として飲用されることも多かった。
大消費地江戸を控えた流山では、安永年間(1772~1781)に、江戸側の舟運、周辺農村で生産される穀物、下総台地の燃料に恵まれた地の利を生かし、みりん醸造がが始められた。
秋元家はそもそも鶴ヶ曽根村(現埼玉県八潮市)の出と言われている。初代三左衛門は明暦、寛文の頃(1655~1672)鶴ヶ曽根村から流山村に移住、農業を営んでいたが、やがて4代目三左衛門(素光浄阿居士・1724~1798)に至って豆腐製造を兼業し、後の1775(安永4)年に酒造株を買い取り酒造業を始めたと言われている。同家の創業時から以後の営業規模や内容は不詳だが、1836(天保7)年頃は、酒造米高700石で酒以外のみりん・直し(みりんのもろみに焼酎やアルコールを加えてつくった甘い酒)を生産していた。
そして、5代目三左衛門の感義(双樹)が26歳の時、父とともに白みりんの開発に成功し、「天晴みりん」として売られた。
同家のみりんが好評で営業も発展したことは、同家が1894(明治27)年に作製した銅版画に、敷地内の住宅や醸造施設などが22棟も描かれていることからもうかがえる。

●ウィーン万国博覧会・内国勧業博覧会・共進会等への出品
万国博覧会は世界各国の工業社会化の現状を1か所に集中展示する、19世紀に生まれた情報伝播の一形式である。日本は1867(慶応3)年のパリ万国博覧会から参加するが、明治になり日本政府として参加したのが1873(明治6)年のオーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会である。ウィーン万国博覧会は後にわが国での博覧会開催のモデルとなる。
流山のみりん、秋元三左衛門の「天晴」と堀切紋次郎の「万上」もこのウィーン万国博覧会に出品し、有効賞牌を授与されている。そしてこれ以降、二者とも内外の博覧会に数多く出展し、名声を高めていくのである。
万国博覧会へは日本のイメージの定着、また国内生産物の輸出市場の拡大とともに、海外の産業や技術情報を集めることを目的に熱心に参加する。明治政府がいかに殖産興業政策を重視したかがうかがえる。
殖産興業のため万国博覧会をモデルに日本国内で、内国勧業博覧会や共進会等が盛んに開催される。
内国勧業博覧会は5回行われたが、第1回は1877(明治10)年に東京上野公園で行われ、流山のみりんも出品される。堀切紋次郎と秋元三左衛門のみりんは花紋褒章を授与する。

千葉県流山市流山6-670-1
公式ホームページ

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