飯盛山 (32 画像)
1868(慶応4)年8月23日(新暦10月8日)、年齢が16~17歳で構成された士中二番隊の白虎隊士は猪苗代から十六橋を越えて進撃した西軍と戸の口原で交戦するも、敵の軍事力に圧倒されて退き、戸の口洞門をくぐってこの地に至った。
炎上する城下を前に、玉砕か帰城かを巡って、激論を戦わした。敵陣突入を提案する者もいれば、鶴ヶ城が簡単に落城するはずはないとして帰城を主張する者もいた。しかし、最終的に「誤って敵に捕えられ屈辱を受けるような事があれば、主君に対しても申訳ない。この場は潔く自刃し、武士の本分を明らかにするべき」と決断にはじめて、全員が同意し、一同列座し南鶴ヶ城に向かって訣別の意を表し、全員が自刃した。
後、1名が蘇生。その名は飯沼貞吉である。なお、鶴ヶ城開城はその1ヵ月後であった。

福島県会津若松市一箕町大字八幡弁天
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