徳川家達邸跡 (4 画像)
JR中央線千駄ヶ谷駅の目の前にある東京体育館は、かつて徳川家達の屋敷があった。その面影は、体育館入口スロープ右側の植え込みに残された、灯篭に見ることができる。 徳川家達はもとは田安亀之助。1868(慶応4)年、水戸弘道館で謹慎を続ける慶喜に代わって、徳川宗家を相続。駿府70万石に封じられている。
家達は一時期、駿府で過ごすが、明治4年に東京に戻り、明治17年には、侯爵に列せられている。
明治27年7月9日、徳川慶喜の正室美賀子はこの徳川家達邸で息を引き取っている。
美賀子は今出川三位菊亭実順の妹。一条忠香の養女となって、名前を延から美賀と改め、1853(嘉永6)年5月18日、一橋慶喜と婚約した。
結婚した翌年に女児を1人出産するが、生まれてまもなく死亡。以後子供を産むことはできず、慶喜が静岡に移って以降は家庭内離婚のような生活を送っていたという。
慶喜と美賀子は、共に過ごす時間が長かったとはいえない。1862(文久2)年7月、安政の大獄で申し渡された謹慎を解かれ、慶喜は一橋家を再相続。将軍後見職にも就任して、東奔西走の生活を始めている。謹慎中は嫌でも顔をつきあわせていた夫婦であったが、以後2人の仲が温まる時間は非常に少なくなっている。
2人が再び一つ屋根の下で暮らすようになるのは、明治2年9月に慶喜の謹慎が解かれて後である。
同年10月25日、美賀子は東京から静岡に移る、慶喜がいる元代官屋敷に入り、慶喜の側室、新村信や中江幸、そして彼女たちが生んだ子供達との生活を始める。
明治24年5月、美賀子は高松凌雲の執刀で乳癌の手術を受ける。明治27年5月、病気治療のため上京し、家達邸で療養していたが没した。享年60歳。
慶喜は美賀子の三回忌の時、次の歌を詠んでいる。
なき人を 思ひぞいづる もろともに 聞きし昔の 山ほととぎす

東京都渋谷区千駄ヶ谷1-17

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