巌流島 (50 画像)
船に似ていることから、正式名称は船島である(下関市大字彦島字船島)。1612(慶長17)年4月13日、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことはあまりにも有名である。決闘が行われた当時の巌流島は、現在の1/6で、わずか17000㎡だったが、その後、明治から大正にかけて埋立て工事が行われ、現在では103000㎡の広さである。
「二天記」によると、約束の辰の刻(午前8時)より大幅に遅れて巳の刻過(午前10時)に武蔵が到着。待ちくたびれた小次郎との間で決闘が始まった。遅参に怒った小次郎は鞘を投げ捨て、刃渡り3尺ありそうな刀を抜き、武蔵の前頭部に振り下ろしたが、刀は武蔵の鉢巻の結び目を切っただけであった。かわりに武蔵の木刀は振り下され、小次郎の頭を打ち砕き、勝敗は決した。勝った武蔵も相当慌てていたらしく、とどめをさすのも忘れ、船に飛乗り下関へ向かったという。負けた小次郎の流儀にちなんで、巌流島と呼ばれるようになった。
幕末の1867(慶応3)年には、坂本龍馬が妻のお龍とともに巌流島にこっそり上陸、花火を打ったという。

●古代伝説
本州と九州の間は陸続きでその下に潮の流れる穴があったが長年の侵食と地殻変動によりいつの時代にか陥没、その流れた土壌が船島となったと平田篤胤説を公表、それまでは本居宣長の『古事記伝』に書いた「土壌が流れて引島に」や大同小異の伝説があった。
島名は、下関側で「舟島(現在は船島)」、小倉側で「向島」と、それぞれ違った呼び方が受け継がれることになる。

●1612(慶長17)年4月13日(12日・14日説あり)
宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘

◎宮本武蔵
生まれは兵庫県とも岡山県英田群宮本村とも言われている。生涯を剣術探究に捧げ、生み出した兵法が、太刀を右手に小刀を左手に持ち自在に操る二天一流である。
わずか13歳にして初めての仕合をかわきりに吉岡一門との仕合、大阪冬・夏の陣の激戦も経験。小次郎との「巌流島の決闘」等、多くの仕合に勝ってきたが、ほとんどが撲殺だともいわれている。

◎佐々木小次郎
周防国岩国とも福井県足羽の生まれとも言われ、出自、生年月日など謎につつまれている。
中条派を学び、剣の腕を磨いた、剣の天才であった。自ら巌流という流派を興し、刃渡り90cm以上もある長刀をあやつり小倉藩の指南役に抜擢される。
頭上から一気に振り下ろし剣先をひるがえして下から切る「燕返し」をもって巌流島(船島)にて武蔵と対決する。

●1849(嘉永2)年7月
吉田松陰が下関周辺を視察。巌流島に上陸。小次郎の墓に参り「近くの山に二郎兵衛がからいどあり」と書き遺している。

●1910(明治43)年10月31日
「佐々木巌流の碑」が島に建立される。

●1921(大正10)年11月2日
齋藤茂吉が渡欧の途中に島に渡り、
「わか心いたく悲しみこの島に命おとしし人をぞおもふ」など歌三首と随筆「巌流島」を残す。その後、齋藤茂吉と菊池寛が武蔵と小次郎の大論争を展開。

●1955(昭和30)年
巌流島の住民がピーク時約30軒になる(50軒近いとの説あり)
昭和48年(1973)4月
島に残っていた老人1人が島を去り、居住者ゼロとなる。

●1987(昭和62)年10月4日
巌流島いっぱいに篝火を焚きアントニオ猪木とマサ斉藤のプロレス「夜のデスマッチ」興行。

●1990(平成2)年9月30日
巌流島にて岡山県大原町(武蔵出生地説)と福井県今立町(小次郎誕生地説)が、下関・熊本両市長立会いのもと、姉妹縁組に調印。

●2003(平成15)年
巌流島整備事業完工。
小次郎像(原型寄付・村重勝久)
武蔵像(デザイン・広瀬直樹)の設置。
浮き桟橋・釣りデッキ・人工海浜の整備。
歴史に触れる観光地としての歩みを始める。

NHK大河ドラマ「武蔵MUSASHI」放映
佐々木小次郎像松岡昌宏除幕(平成14年12月11日)
宮本武蔵像市川新之助除幕(平成15年4月14日)


遅れてやってきた武蔵は、櫂の木刀を引っさげ素足で船から降り立った。小次郎は待ち疲れていた。小次郎はいらだち、刀を真っ向に振り立て、眉間めがけて打ちおろした。同時に武蔵も櫂の木刀を打った。その木刀が小次郎の額にあたり、たちどころに倒れた。小次郎の打った刀はその切先が武蔵の鉢巻の結び目に触れ、鉢巻は二つになって落ちた。武蔵は倒れた小次郎を見つめ、また木刀を振りあげて打とうとする瞬間、小次郎が刀を横にはらった、武蔵の袴のすそを三寸ばかり切り裂いた。が、武蔵の打ちおろした木刀は、小次郎の脇腹、横骨を打ち追った、小次郎は気絶し、口鼻から血を流した。武蔵は手を小次郎の口鼻にあてがい、死活をうかがい、一礼して、立ち去った。 (「二天記」より要約)

小次郎の唇に、微かな笑みが浮かんだ。そして、まだ見開いたままの小次郎の両眼から、急に、生きている光が失せていった、激しい声をあげて、新之丞が泣き出した。小谷新右衛門が立ち上がって、海のほうを睨んでいた。
ぎらぎらと光る海を、武蔵の小舟は、東へ向かって流れを変えた潮に乗り、下関のほうへ、ひた走るように影を小さくしている。
東馬は、静かに小次郎の瞼を閉じた、まだ固くつかんだままの小太刀を、その右手から放そうとして気がつくと、小次郎の左手は、小さな黄色い花を、そっと摘むような形をしていた。あの、浜ぐるまの花であった。
(村上元三「佐々木小次郎」より抄出)

・山口県下関市大字彦島字船島
公式ホームページ

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