円覚寺 (166 画像)
わが国はおよそ700年前、文永・弘安の二度にわたる蒙古軍の来襲という空前の国難を迎えた。時の執権北条時宗はかねてより深く禅に帰依し、弘安の役のさなかにも、中国から招いた無学祖元(仏光国師)を師として、日夜参禅に励んでいた。
国を挙げてこの難敵に当たり、蒙古の大軍を撃退した時宗は、文永・弘安両役に殉じた彼此(ひし)両軍死者の菩提を弔い、己の精神的支柱となった禅道を弘めたいと願い、且つその師仏光国師への執恩の念から円覚寺の建立を発願した。「円覚」の寺号は寺地選定の後、この地から石櫃(せきひつ)に入った円覚経を掘り出したことによるといわれている。
開山の法灯は高峰顕日(こうほうけんにち・那須霊巖寺)、夢窓疎石(天龍寺)と次第し、世に「仏光派」と称された。殊に夢窓は南北朝「七朝の帝師」といわれ、その門流は室町時代にわが国禅界の中心的勢力を形成した。
数度の大火に遭い、衰微したこともあったが江戸末期に中興の誠拙(せいせつ)和尚が出て、伽藍を復興し、現今の円覚寺の基礎を固め、修行者に対して峻厳(しゅんげん)をもってし、宗風の刷新を図った。
明治には今北洪川・釈宗演の師弟のもとに雲衲(うんのう)や居士が参禅し、関東禅界の中心となった。
居士林における坐禅会は古い歴史を誇り、秀れた人材を打ち出した。
首都圏各地からの交通の便に恵まれ、静かな境致と相まって、各種の坐禅会・夏期講習など多くの人々に親しまれ、「心の寺・円覚寺」と呼ばれ、訪れる人びとに深い心の安らぎを与えている。山内に18ヶ寺の塔頭(支院)があり、近末には浄智寺東慶寺瑞泉寺・大慶寺がある。

●帰源院
●佛日庵

・神奈川県鎌倉市山ノ内
公式ホームページ

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