旧神谷伝兵衛稲毛別荘 (42 画像)
この付近は、かつては眼下に海が広がり、潮の香りが漂う緑の松林にかこまれた格好のリゾート地であった。
稲毛海岸は、1888(明治21)年千葉県第1号の海水浴場が設けられ、同時に砂丘の松林に観光客用の宿泊施設「海気館」が建てられ、潮干狩りと海水浴などが楽しめるリゾート地として開かれた。
初代神谷伝兵衛(1856~1922)は、大正6年、休養を第一の目的に稲毛別荘の敷地を「海気館」と地続きで日当たりが良く砂浜に近いここ斜面地を求めた。伝兵衛61歳の時である。
この稲毛別荘は、伝兵衛が1917(大正6)年4月建設に着手し、1918(大正7)年に竣工したと考えられるが、設計者等や施工者等の記録がなく、残念ながら特定できていない。
当初の別荘建物等の構成は、現存している洋館1棟のほかに、隣接して和館1棟と付属施設2棟の計4棟からなっていたようである。
伝兵衛は明治時代、「蜂印香竄葡萄酒」や「電気ブラン」の名を広め、フランスからワイン製造事業を導入した実業家であり、天井の飾りや2階和室の意匠などに伝兵衛の心意気が見られる。
建物の構造は、鉄筋コンクリート造り半地下地上2階建で、屋根架構はキングポストトラス(中央の束のある洋風小屋組)である。
建物の外観は、1階ピロティ正面にロマネスク様式に通じる5つの連続アーチがあり、外壁を白色磁器質タイルで仕上げ、昭和初期に導入されるモダニズム建築への変化をうかがわせる特徴を持っている。
建物の内部は、1階が本格的な洋間であるのに対し、2階が和室となっている。1階内部の装飾は、玄関天井のシャンデリアの中心飾にぶどうのモチーフを用いたり、広間に設けたマントルピースに絵かきタイルを用いて床を寄木張りとするなど、華やかなあしらいとなっている。階段は、典型的な洋風階段と見せながら、1階から2階へ続く壁を緩やかな曲線の白漆喰仕上げとし、途中2箇所花台をあしらうなど、1階洋室と2階和室を結ぶために、意識的にしつらえている。
2階は、12畳の主和室と8畳の和室を中心に構成されている。主和室の東面と南面に広縁が巡り、その南東隅に半円形の張り出しが付いている。
主和室は、数寄屋風のつくりで、床の間が長手方向に設けられ、違い棚や付け書院を合わせもった本格的なものである。
床柱には、ぶどうの巨木を用い、天井を竹格子で組み、部屋全体をぶどう棚に見たてた仕上げなど、1階の内部装飾とともに、ワイン王神谷伝兵衛をしのばせる意匠が、随所に見られる。
初代伝兵衛は、別荘を週末に利用する程度であったと言われ、2代目以降は一年のうち5月につつじ見物、8月に海水浴などの避暑として利用していたと言われている。
この建物は、昭和59年川島豊治氏より寄贈されたもので、市内に残る鉄筋コンクリート建築として最も古く、全国的に見ても初期の建築であるので、1923(大正12)年の関東大震災による煉瓦建築の崩壊ぶりをみるまで、一般的な建築構造として充分認められていなかった時期に建築されたものとして、建築史のうえからも大変貴重である。千葉市が平成元年8月から平成2年3月にかけて保存改修整備を行った。

●神谷伝兵衛
初代神谷伝兵衛は、1856(安政3)年三河国(愛知県)幡豆郡一色村に神谷兵助の6男として生まれた。1868(明治元)年12歳の時、父から資金を借り商売で利益をあげ、1873(明治6)年の時、横浜外国人居留地のフレッレ商会に雇われ洋酒製造法を習得した。
1877(明治10)年山梨に日本最初のワイン醸造会社「大日本山梨葡萄酒会社」を設立し、本格的なぶどう栽培とワイン製造事業が始まったことに刺激を受け、1880(明治13)年24歳で、東京浅草の花川戸町(現台東区浅草1丁目神谷バーの所在地)で「みかわや」の屋号で酒の一杯売を開業し、「蜂印香竄葡萄酒」や「電気ブラン」の名を広める基礎をつくった。以来、1922(大正11)年66歳で他界するまで、フランスを本拠とするワイン製造事業を導入し、本格的な拡充をはかった。

・千葉市稲毛区稲毛1-8-35
公式ホームページ

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