河井継之助終焉の家(塩沢家) (24 画像)
1868(慶応4)年7月29日、一度は奪回した長岡城も、再び西軍の手中に落ちた。
栃尾に退いた長岡藩を中心とする同盟軍は、会津に逃れて再起をはかることとなり、重傷の継之助は担架に乗せられ、千数百名の味方と共に会津へ向かった。途中、80里越の山中に一泊、8月5日、只見村に到着し、目明し清吉宅で傷の手当てを受けていたが、幕府の医師松本良順のすすめに従い、若松へ向かうこととなり、12日同所を出発、13日塩沢村医矢沢宗益宅に投宿した。
その後も次第に傷は悪化。同月15日、継之助は死を予期し、側近花輪求馬に後事を託すとともに、従者の松蔵に死後の準備を命じた。
翌16日昼頃、継之助はひと眠りしようと付き添いの者を遠ざけ、寝に入ったが再び目覚めず、午後8時頃ついに永眠した。享年42歳だった。
この矢沢家は、その後も同家の人々が住んだが、昭和39年滝ダムの建設により、水没することとなったため、終焉の間の部分のみ切り離し山腹へ移転した。同年開館した河井継之助記念館とともに、昭和47年より当地において一般公開されていたが、老朽化がはげしいため、平成5年河井継之助記念館の新築に伴い、館内に移築復原された。

●河井継之助記念館
●河井継之助の墓(医王寺)

・福島県南会津郡只見町塩沢上ノ台850-5 河井継之助記念館
公式ホームページ

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