中野竹子殉節の地 (3 画像)
ここは、1868年明治戊辰の役で、西軍を迎え撃ったところで、西側には旧越後街道が通っていた。
8月23日には、中野竹子・優子の姉妹を中心とした婦女子隊は坂下まで出陣したが、8月25日には、婦人の従軍が許されたので、黒髪を断ち、薙刀をかかえ、衝鋒隊に加わり、城下にせまる長州・大垣藩の兵士とここで遭遇し、激しい戦いが展開された。
竹子の辞世は
武士(もののふ)の 猛き心に くらぶれば 数には入らぬ 我が身ながらも
と詠んだ短冊を、薙刀に結びつけ奮戦したが、敵の銃撃にあい、壮烈な戦死をとげた。時に22歳であった。
墓は会津坂下町の法界寺にある。

福島県会津若松市神指町大字黒川街道西
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