江戸伝馬町牢屋敷跡(吉田松陰終焉の地) (16 画像)
●伝馬町牢屋敷跡
伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治8年市ヶ谷囚獄が出来るまで約270年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数10万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積2618坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御椓場死刑場役は有名な山田浅右エ門、それに同心78名、獄丁46名、外に南北両町奉行から与力1人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政5年9月から同6年12月までの1年3ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等50余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もここで尊い血を流したものは前者と合わせて96士に及ぶという。これ等愛国不尽忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤王志士96名の祠と木碑が建てられてある。

●吉田松陰終焉の地
吉田松陰は1830(天保元)年8月4日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年3月、師の佐久間象山のすすめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」同年9月まで約6ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者6名、贈位者17名、有位者14名等多くの著名の士が出て中でも伊藤博文、山県有朋、木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三つであるが、その明治維新にこれら松下村塾生の動きが大きな力となったことを深く考えたいのである。後に松陰は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政6年7月9日江戸の長州藩邸から初めて評定所に召出されたが、その時「まち得たる 時は今とて 武蔵野よ いさましくも鳴く くつわ虫かな」と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の3回の取調べで死刑を覚悟した10月22日に父、叔父、兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが「親思ふ 心にまさる 親ごころ けふのおとづれ 何と聞くらん」の一首である。また処刑の時の近づいたのを知って10月25日より26日の黄昏までかかって書きあげたのが留魂録でその冒頭に「身はたとひ 武さしの野辺に 朽ちぬとも とゞめ置かまし 大和魂  十月念五日 二十一回猛士」と記してある。松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に托したが20年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問応答の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。安政6年10月27日は処刑の日であった。揚屋を出る松陰は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」継いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。行年30歳。明治22年2月11日正四位を贈位され、昭和14年6月、十思小学校校庭に留魂碑が建設された。

・東京都中央区日本橋小伝馬町5-2
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