高杉晋作終焉の地 (3 画像)
高杉晋作(号・東行)は1839(天保10)年8月20日萩藩士高杉小忠太の嫡男として萩城下に生まれ、藩校明倫館に学ぶ傍ら、松下村塾で吉田松陰に師事し攘夷思想を養った。
1863(文久3)年6月、攘夷の決行で外国艦に砲撃された下関を防備するため来関し、直ちに奇兵隊を結成した。奇兵隊は「志」あれば庶民でも入隊を許した画期的な軍隊だった。1864(元治元)年8月、下関戦争の戦後処理にあたり、また、同年12月には長府功山寺で挙兵して藩論を討幕へと導いた。
1866(慶応2)年6月からの四境戦争(第二次長州征討)では、奇兵隊などの諸隊を率いて幕府軍を小倉口で撃退したが、既に病に冒されており、1867(慶応3)年4月14日、新地の庄屋林算九郎邸の離れ家があったこの地で没した。27年と8月の短い生涯だった。
なお、遺骸は奇兵隊陣屋近くの吉田清水山に埋葬され、葬儀は白石正一郎が祭主となって神式で行われた。
この碑は1926(大正15)年5月に再建されたもので、碑銘は書家としても著名であった長州藩出身の貴族院議員野村素介(素軒)の揮毫である。
2014(平成26)年12月、白石家(正一郎末孫)からの寄付を原資として、この地の環境整備を実施した。

・山口県下関市新地町3

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