大専坊 (3 画像)
防府天満宮の表参道に面した両側には明治維新まで9つの社坊(西側に大専坊、西林坊、東林坊、密蔵坊、会所坊、東側に円楽坊、等覚坊、乗林坊、千蔵坊)が立ち並んでいて一山の総号を酒垂山萬福寺と称した。大専坊はその一山の別当坊で天満宮創建当時の草創という。
この坊は1537(弘治3)年毛利元就が大内義長を山口に攻めこれを長府で自刃せしめて防長両国を平定するまで元就の参謀本部となった。
また尊王攘夷で激動した幕末にはこの地方を警固する諸隊の屯所となった。

●防府で少年時代を過ごした、初代内閣総理大臣伊藤博文
初代総理大臣伊藤博文は、1841(天保12)年10月16日に、周防国熊毛郡束荷村(現在の光市)の貧しい農家の林十蔵、琴子の長男として生まれた。幼名は利助。その後、父が萩の伊藤家の養子となったため、に引っ越し伊藤姓を名乗った。利助も長じて俊輔、博文と称した。
利助は萩に行く前の9歳の頃、防府天満宮参道にある大専坊の住職をしていた親戚に預けられ、少年時代を防府で過ごした。このことは「藤侯実歴」の中で、次のように記載されている。
「侯の親戚で周防の宮市、俗に防府と言ふ処に有名な天神がある。其処に真言の僧になって居た人がある。その防府は菅公が筑紫に流される時、暫らく足を留められた所で、名高い天神であるが、その真言の寺は大専坊と言った。その寺の和尚に預けられて、侯は其処で書物を教へられて、萩に行った。」
このように伊藤は、防府天満宮の社坊(神社の中にある寺)のひとつ大専坊の住職だった親戚を頼って住み込み、書物を学んだのである。
「大専坊」は、戦国時代に、毛利元就が大内義長を攻めたさいに、毛利側の参謀本部にもなった歴史ある寺院である。幕末には、毛利藩志士の屯所となり薩摩や土佐などの志士たちが頻繁に出入りしており、高杉晋作と来島又兵衛が相撲をとっていたとの逸話も残されている。伊藤が過ごした当時の建物は現存している。
伊藤は、1899(明治32)年5月から6月にかけて、西日本を遊説し、北九州、長府を経て防府にも立ち寄っているが、これは、大専坊で過ごした時からおよそ半世紀後のことだった。その頃の伊藤は3度も内閣総理大臣を経験し、「大日本帝国憲法」を作るなど、明治日本のリーダーとして、不動の地位を築いていた頃である。
5月31日の「防長新聞」には、前日の防府における伊藤のことを報じた記事が掲載されている。それによると、市街各戸が国旗を掲げ歓迎の意を表す中、伊藤は午前9時に、三田尻停車場(現在のJR防府駅)前にあった旅館「松崎館」を出発し、演説会場である宝成庵(現在の成海寺)に到着した。会場では、代議士大岡育造による談話の後、伊藤が登壇するや大きな拍手喝采が起こった。会場いっぱいの1800人を超える多くの聴衆を前に「幼少の時より郷国を出でたることより説き起こして、維新前後の状況及び最後に諸外国の現状を述べ、国家の発達を計ることに就ては山口に於て詳述すべし」と演説し、11時40分に演説を終えた後、少年期を過ごした数百m東の防府天満宮境内にある春風楼で催された歓迎会に出席した。伊藤にとって、この付近は少年時代を過ごした地でもあり、その頃の想い出が脳裏を横切り感慨深かったのではないだろうか。歓迎会の後、午後1時に防府を出発し山口に行き、その後、萩でも演説をしている。
この時、春風楼前で写真を撮影し、伊藤は前列中央、その隣には旧主筋にあたる公爵毛利元昭の姿も見える。
なお、伊藤が演説したとされる宝成庵という寺院は、明治43年に山口県に届け出て、成海寺(曹洞宗)と改めている。現存している巨大な本堂は、伊藤の演説した半年前の明治31年11月15日に竣工されたものである。
堂内には寺号に由来する伊藤の書類「滴水成海」(したたる水が海を成すとの意味)や、伊藤の肖像写真も掲げられおり、貴重な歴史を今に伝えている。

●防府天満宮
●暁天楼
●芳松庵(円楽坊跡)
●春風楼

・山口県防府市松崎町14-1
公式ホームページ

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