日向別邸(ブルーノ・タウト「熱海の家」) (6 画像)
古くから温泉町として知られ将軍家の別荘もあった熱海に1889(明治22)年他所にさきがけて御用邸が設けられ、要人や富豪らも別荘を持つようになり大正初期には上流階級の多くが別荘を構え、同時に別荘地を所有していた。大正末期に熱海線が開通し、昭和にかけて温泉付別荘地の開発・分譲が大きく進展し、今も市内の各所に当時の別荘建築が現存している。
この東山一帯は大正初期まで未開発だったが、大正末期から昭和初期に数名の所有者により眺望のよい海側を中心に開発された。土地の高低差が大きいため主要道路から石段の細い坂道を延ばし、そのまわりに分譲地が造成されている。1933(昭和8)年、実業家日向利兵衛は坂道の南端にあるこの地を購入し、翌1934(昭和9)年、渡辺仁の設計による木造2階建の上屋が建てられた。敷地は海に向かう急傾斜の崖地で、土留めのかわりに鉄筋コンクリートで地下室を造って屋上を庭園にし、その地下室につくられた「地下の離れ」は、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトの設計により和と洋が独特のかたちで表現されている。世界的な活躍をしたタウトが日本の遺した唯一の建築作品である。日記には設計にあたって来日以来親交のあった逓信省気鋭の建築家吉田鉄郎とその部下たちの協力を得たことが記されている。また、タウトがデザインした家具の製作には高崎でタウトの教えを受けた水原徳言らが携わった。なお、低い土塀に囲まれた庭園は日向の娘婿にあたる造営家田村剛の関与があったと思われる。
タウトの日記には、銀座のミラテスという井上房一郎が経営する工芸品店で、タウトがデザインした電気スタンドを購入して興味を持った日向が、外務省の柳沢健を通じてタウトに会い、この熱海別邸の地下の離れの設計を依頼したと記され吉田鉄郎も当時の国際建築にそのように述べている。一方、日向の娘の記憶では、日向は旧知の柳沢からタウトについて頼まれたのだということであるが、いずれにしても、美術工芸をして建築にも造詣の深い日向とタウトの出逢いは、日本の建築界にとってきわめて幸福なことであったといえるだろう。ちなみに、日向はタウトを全面的に信頼し設計に口を挟まない態度を貫いたといわれる。このことにタウトは深く感謝し、この施主と設計者の関係は桂離宮の造営において「御催促なき事」「御助言なき事」「御費用御構ひなき事」を約して仕事を進めた秀吉と小堀遠州の関係と同様であるとしみじみと語っていたと吉田は述べている。
地下の離れの完成から3年後の1939(昭和14)年日向が没し、その後、日向家が手放してからは、民間企業の保養所として使われていたが、東京在住の女性の寄付を受けて熱海市が取得し、平成19年7月から一般公開を始めた。
2003(平成15)年、DOCOMOMO選定建築物に選定、2005(平成17)年8月には、熱海市指定有形文化財に指定された。

●ブルーノ・タウト
1880年5月4日、東プロイセンのケーニヒスベルク(現・ロシア共和国カリーニングラード)に生まれる。1902年、働きながら土木建築学校を優秀な成績で卒業した後、ハンブルク、ウィスバーデン、ベルリン、シュトゥットガルトの建築事務所などで働き、1909年ベルリンに建築事務所を開設。大規模アパート、百貨店、映画館、レストラン、多くの大小の住宅などの設計によって建築家としての力を磨き、1913年ライプツィッヒ国際建築博覧会での「鉄の記念塔」、1914年ケルンのドイツ工作連盟展での「ガラスの家」など前衛的な作品で、ドイツ建築界に名を馳せた。しかし、第一次世界大戦により建築活動は中断される。
第一次世界大戦後は、勤労者の深刻な住宅不足を解消するためのジードルンク(集合住宅)の建築に力を注ぎ、1930年にはベルリンのシャルロッテンブルク工科大学の教授としてジードルンクと住宅建築の講座を担当した。当時、ナチス支配下のドイツでは、ジードルンク建築によって大衆の便を図ろうとする建築家は社会主義的であるとみなされ、ヒトラー内閣成立の直前、1933年3月1日、友人から身辺の危険を告げられ、その日の夕方、エリカ夫人を伴いベルリンを脱出、かねてより招聘を受けていた日本へ向かうことを決めスイスへ逃れる。フランス。ギリシア、イタリア、トルコを経てソ連へ入り、モスクワからシベリア鉄道、船舶を乗り継ぎ、日本に向かう。
1933(昭和8)年5月3日、エリカ夫人とともに敦賀港に上陸、京都に到着、翌日には桂離宮を見学する。「私達は、今こそ真の日本をよく知り得たと思った。」と桂離宮を偉大な芸術を持つ美と絶賛した。大阪、神戸、東京、日光、箱根、伊勢など各地を訪れ、11月からは仙台の商工省工芸指導所に嘱託員として勤務。工芸デザイン改善のための研究、試作プログラムの立案、これらの規範となる「規範的原型」の製作指導にあたる。1934(昭和9)年8月から日本を去るまでのおよそ2年間は、群馬県高崎市郊外の少林山達磨寺の洗心亭に滞在し日本の伝統的な素材と技法を活かした工芸品の設計や製作指導にあたった。一方、桂離宮や伊勢神宮、飛騨白川や秋田で目にした民家などの日本の自然と建築の美しさや伝統文化を再評価し「日本美の再発見」などの著書を遺した。日本での建築作品は、東京麻布の大倉邸と旧日向別邸だけであったが、大倉邸は、建築家・久米権九郎の設計に部分的に協力したものであり現存しない。旧日向邸は、タウトが日本に遺した唯一の作品である。 日向邸地下の離れの完成間もない1936(昭和11)年10月15日、日本を離れ、釜山、北京を経由しシベリア鉄道でイスタンブールに向かう。トルコ建国の父ケマル・アタチュルクからの招聘に応じ、イスタンブール芸術大学教授となりトルコの国会議事堂、アンカラ大学などの設計や技術者の養成に活躍する。1938年12月24日、ボスポラス海峡を望むイスタンブールの自邸で脳溢血のため、58歳で逝去。

●タウトの色
タウトは、「色彩の建築家」としても知られる。パステル画、工芸品のレベルから住宅、都市に至るまで一貫して色彩的効果を意識した造形を試み、彼の作品を特徴付けている。なかでも1910年代からベルリン近郊に建てられたジードルングの数々は圧巻で、赤や青、黄色などを建物内外に塗色する個性的な住宅群を創り出した。
日向別邸の内部においては、漆喰や絹といった日本の素材を用いながら淡黄色、深紅、灰緑色等で各室を塗り分け、それぞれ異なる趣を与えることに成功している。その施工に際しては、幾度も塗り直しをさせたと伝えられる。日向別邸でもドイツ時代同様、タウトが色に対して相当に気を配っていたことがうかがえる。

●日向利兵衛(1874~1939)
1874(明治7)年1月21日、大阪で紫檀、黒檀など南方の銘木を輸入して家具を製造販売する「唐木屋」の一人息子として生まれる。幼名は利三郎。15歳の頃イギリスを目指して香港に渡り日本人商会に勤めたが、日本領事に諭され帰国。第三高等学校(現・京都大学)、東京高等商業学校(現・一橋大学)に学び、1895(明治28)年卒業、同年家督を相続し利兵衛を襲名。直ちに海外貿易の仕事をはじめる。当時日本の重要な輸出品であったマッチの原料燐(りん)の輸入を足がかりに、得意の語学と幅広い人脈を生かし、アジア全域の貿易商として活躍。また、東洋海上火災保険会社などアジア関係の会社経営にも携わった。別邸完成の3年後、1939(昭和14)年9月、65歳で逝去。

●渡辺仁(1887~1973)
1887(明治20)年2月16日、後に東京帝国大学工科大(現・東京大学工学部)学長を務めた渡辺渡の長男として佐渡に生まれる。1912(明治45)年、東京帝国大学建築学科を卒業。鉄道院及び逓信省を経て、1920(大正9)年、父の逝去を機に渡辺仁建築工務所を開設。1926(大正15)年には建築研究のため欧米を視察。横浜ホテルニューグランド(1927年)、銀座和光(旧服部時計店、1932年)、東京国立博物館(旧東京帝室博物館、1937年)、日比谷第一生命(旧第一生命相互保険会社本館、1938年)、品川原美術館(旧原邦造邸、1938年)など、昭和建築史を彩る多くの作品を手がけた。1973(昭和48)年9月5日、86歳で逝去。

・静岡県熱海市春日町8-37
公式ホームページ

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