竹鶴政孝生家(小笹屋 竹鶴酒造) (9 画像)
日本のウイスキーの歴史は、ニッカウヰスキーの創業者で、2014年9月29日から放送開始となったNHK連続テレビ小説「マッサン」の主人公のモデル・竹鶴政孝によって開かれたといっても過言ではない。その政孝がウイスキーづくりを学ぶためにスコットランドに単身渡ったのが1918年。以来80数年の歳月を経て手にした「ウイスキーマガジン」テイスティングコンテストでの最高点獲得という栄誉は、現在のジャパニーズウイスキーの到達度を象徴するものだった。
ちなみに、このコンテストでは、世界の著名パネリスト(審査員)が端正なるブラインドテイスティングを実施し、評価するというもので、ウイスキーの世界では最も権威ある評価とされている。つまり、ここでの最高得点獲得は、まさしくその年のウイスキー世界一に値するものだ。しかも、その栄誉に輝いた「シングルカスク余市10年」は、くしくも政孝がつくった北海道余市蒸溜所で生まれた樽出しモルト(原酒)であった。
なぜ、「日本のウイスキーの父」といわれる竹鶴政孝のような人材が竹原から輩出したのか。「その背景として、広島の造り酒屋に生まれ育ったという環境と、その時代の広島酒の機運を抜きには考えられない」と語るのは、政孝のいとこの息子にあたり、現在竹鶴酒造の社長を務める竹鶴壽夫だ。
竹鶴政孝は1894(明治27)年この家の産室で生を受けた。ここは竹鶴本家(以下、本家)であり、政孝の家は祖母の代に分家しその実家は現在の「道の駅たけはら」の対岸、当時の塩田の一角に在り、製塩業と回船業を営んでいた。
本家の現在の家業は創業が1733(享保18)年の酒造蔵元であるが、1650(慶安3)年当時の竹原の代官による施策で製塩が始まった当初からの塩業主31軒のうちの1軒である。JR呉線の開通のため塩田が買収された1929(昭和4)年に廃業するまでの279年続いた「小笹屋」が起源である(竹原の塩田は1960年に国策により廃止された)。
現在の本家第13代当主竹鶴壽夫の祖父第11代当主友三が生まれてのち僅か3か月で母が、そして6か月で父が当時の流行病コレラで死亡したことが政孝の人生に大きな影響を与えた。友三の後見人として政孝の両親が本家へ移り住み酒造業にも携わることになり、そうしたなかで政孝はこの家で生まれたのである。
竹鶴壽夫によれば、ちょうど政孝が生まれたころ、広島の酒造業界では、「吟醸酒の父」といわれる三浦仙三郎をリーダーに、当時抜群のブランド力を持っていた灘酒に負けぬ酒をつくろうと、蔵元たちが酒づくりの改良に意欲的に取り組んでいたという。
政孝の父敬次郎もその仙三郎グループの主要メンバーだった。やがて仙三郎は「百試千改」の言葉に象徴されるような工夫を積み重ね、醪(もろみ)をゆっくりと低温で発酵される「吟醸づくり」の技術を確立。酒には不向きといわれていた広島の軟水から灘酒に負けない高品質の酒をつくることに成功した。
その成果は1907年、全国の酒を一同に集め、その品質だけを純粋に競う「第1回清酒品評会」で顕著となった。全国からの出品点数2138点。そのなかで優等1位、2位を独占したのが広島酒であった。褒賞は優等および1等~3等まであったが、広島酒の受賞率は74.6%、これは灘、伊丹の名醸地をもつ兵庫県の57.6%を大きく上回るものだった。
このとき政孝13歳。子供の頃この酒蔵で遊んでいたが、父敬次郎は大きな桶の中で醗酵するもろみを政孝に見せながら、「一度命を失った米に再び命を与えて酒を造るんだよ。酒は心で造れ、心が通じ合って本物の酒が出来るんだよ」と教えた。
広島酒の改良に情熱を傾ける父親の姿や当時の広島酒造業界の熱気や心意気が多感な政孝少年に影響を与えたことは容易に想像がつく。のちに「品質のニッカ」といわれ、「良いものは必ず売れる」という信念を貫いた政孝の品質主義も、このあたりに原風景があるのであろう。
政孝は竹原尋常高等小学校、忠海中学校から大阪高等工業学校(現大阪大学)醸造科に進学するが、こうした進路選択にも政孝の酒づくりへの興味が読み取れよう。しかし、政孝は学校で醸造を学ぶうちに、次第に洋酒の世界に惹かれるようになっていく。
卒業後、当時の酒類醸造ではトップメーカーでありウイスキーも生産していた摂津酒造に就職する。当時のウイスキーは、アルコールに着色料や香料を混ぜた模造品であったが、「日本初の本格ウイスキーをつくりたい」という阿部の夢をを持っていた。政孝は阿部社長に目をかけられることになり、1918(大正7)年、阿部は自身の夢を政孝に託し、留学費用一切を負担しスコッチウイスキーの本場スコットランドに留学させた。
スコットランドの政孝は、グラスゴー大学で化学を学ぶかたわら、蒸溜所で実習を重ねていく。そして、1919(大正8)年にはグラスゴーの開業医の娘、ジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と出会い、結婚。翌年新妻のリタを連れて帰国した。
しかし、帰国後、日本は第一次世界大戦後の大恐慌の影響を受けていた。摂津酒造も例外ではなく、資金的余裕が無くウイスキーづくりが実現に至らなかった。やむなく断腸の思いで1922(大正11)年に摂津酒造を退社することになった。このとき28歳であった。
翌年、当時赤玉ボートワインで高収益をあげていた、寿屋(現サントリー)鳥井信治郎に招かれ年俸4000円(当時大卒月給40~50円)10年契約で入社し、ウイスキー工場用地選定に着手。政孝は条件の合う北海道を勧めたが、社長は市場との距離からこれに反対し、大阪府山崎に決定した(現在のサントリー山崎蒸留所)。1923(大正13)年の工事着手と同時に、酒造りの盛んな郷里竹原の隣町安芸津から職人として杜氏以下16名を雇い入れ、その年の12月麦芽製造を開始。政孝もリタと共に工場の隣接へ住まいして仕事に傾注した。しかしいざ製造の着手すると疑問が湧き、翌1924(大正14)年単身で再びスコットランドを訪問し製造工程を確認、自信を得て製造を進めた。こうして1929(昭和4)年4月国産初のウイスキーが発売された。この年鳥井社長は50歳、政孝は35歳であった。その後製造は順調に進んだが、社長との意見の不一致に悩んだ末政孝は1934(昭和9)年3月同社を退社した。
直ちに理想の地と考えていた北海道余市にウヰスキー工場を建設するため、3人の資金援助を得て同年7月、余市で大日本果汁株式会社を設立。ウヰスキーは製造後5ヵ年は樽に貯蔵し熟成を待たねば販売出来ず、売り上げは無いのに資金の投入を続けなければならないため、その間リンゴジュースを製造販売して収益を得た。社名を大日本果汁株式会社としたのはそのためであり、後にウヰスキー発売に当り「日果」をとって「ニッカウヰスキー」とした(正式に社名を変更したのは昭和27年)。1936(昭和11)年に念願のウヰスキーを、1938(昭和13)年にアップルワインを製造開始、1940(昭和15)年10月に第1号ウヰスキーとブランデーを発売した。その後のニッカウヰスキーは、太平洋戦争を経て1952年、社名をニッカウヰスキー株式会社に変更した。
「本物を造れば必ず売れる」という哲学から経営では赤字が続くという苦労の連続であったが、社員やその家族を大切にし、料理にはプロ級の腕前を発揮するなど遊び心も忘れなかった。また、スキージャンプ台を寄付、金メダリストの笠谷幸生を社員に迎えるなど、スポーツ振興にも力を注いだ。
リタは、遠い日本に来て苦労の連続であり、特に戦時中は敵国人として見られ精神的にも苦しめられたであろうが、政孝の支えもあって日本人になり切る努力を常に怠らず、日本人以上に日本人らしい人であった。ふたりの生活は40年間であったが、政孝のウヰスキー造りを支えたのはリタであり、政孝を日本のウイスキーの父と呼び、リタは日本のウヰスキーの母と呼ばれている。 そして1962年、政孝渾身の「スーパーニッカ」(特級)を発売する。価格は720ml入りで3000円。当時の大卒初任給が15000円程度といわれた時代の贅沢なウイスキーだったが、年間1000本の限定品は「幻のウイスキー」としてウイスキーファンを魅了した。
実は、この「スーパーニッカ」発売前年の昭和36年、政孝は最愛の妻リタ(享年64歳)を亡くしている。その悲しみを乗り越えて、政孝は息子威とともに来る日も来る日も余市の研究室にこもってテイスティングを行い、究極のウイスキーといわれた「スーパーニッカ」を誕生させた。政孝にとってこの「スーパーニッカ」は、リタに対する鎮魂でもあったのだ。
その後のウイスキー一筋に生きた政孝は、1979年8月29日、85歳で生涯を終えた。その人生はスコットランドでウイスキー造りを学んだ者として、日本に本物を伝えなければならないという使命感に満ちていた。英語で天職のことをコーリング(Calling)という。ウイスキーの神様は、竹鶴政孝という人間を選び、政孝はそれに応えることでウイスキー人生を全うした。
政孝亡きあと、2001年にニッカウヰスキーの「シングルカスク余市10年」がイギリスのウイスキー専門誌「ウイスキーマガジン」で世界一の評価を受けた。この栄誉に加え、2002年には、スコットランドのエジンバラにある世界中に会員をもつモルト愛好者団体ザ・スコッチ・モルト・ウイスキー・ソサエティ(SMWS)が116番目のコレクションとして、日本で初めてニッカ余市蒸溜所を同団体の認定蒸溜所としたのも、世界のウイスキーファンを驚かせた。2004(平成16)年には、宮城峡蒸溜所も認定された。SMWSに認定されるということでは、世界が認める上質なモルトウイスキーであることの証明でもある。しかも、これまでの115種のモルトコレクションは、一つの例外をのぞき、すべてがスコッチ・モルトであった。それだけに、東洋の一角にある島国のモルトがコレクション入りしたのは特筆すべきニュースだった。
オーク樽の中で熟成のために眠るモルトは、時の経過ととみに欠減分が生じる。これを「天子の分け前」(エンジェルズシェア)と呼ぶが、政孝は2つの吉報をまえに、ウイスキーの神様の許しを得て、余市蒸溜所の「天子の分け前」をグラスに注ぎ、愛するリタとともに祝杯をあげたことであろう。
広島人・竹鶴政孝の琥珀色の夢は、今も、余市蒸溜所や宮城峡蒸溜所で眠るモルトたちに受け継がれ、日本のウイスキーづくりの原動力となっていった。
明治・大正・昭和と激動の時代を凛として逞しく生きた政孝は、1979(昭和54)年8月29日85歳で永眠。眼下に余市の町並みとニッカウヰスキー余市工場を見下ろす美園の丘に夫婦の墓がある。

・広島県竹原市本町3-10-29

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