赤坂氷川神社 (10 画像)
●浅野土佐守邸跡
元禄の頃、この地は備後国三次藩浅野家の下屋敷であった。三次藩は、1632(寛永9)年に安芸国広島藩から5万石を分知され立てられた支藩である。初代藩主は、安芸国広島藩2代藩主光晟の庶兄因幡守長治で、娘には、播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室となった阿久里(阿久理、阿久利とも)がいる。
1701(元禄14)年3月14日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけた元禄赤穂事件が起きた。長矩は即日切腹を命じられ、領地没収のうえ、家は断絶となった。そのため、長矩の正室阿久里は、出家し瑤泉院と称し、生家である三次浅野家に引き取られた。以後、1714(正徳4)年に死去するまで、ここに幽居した。この事件が起こった時、藩主が土佐守を称した3代藩主長澄であったことから「浅野土佐守邸跡」として標識された。
三次浅野家はその後、4代藩主、5代藩主ともに早逝したため1718(享保3)年に断絶となり、遺領は広島藩へ還付された。1730(享保15)年、現在の赤坂4丁目からこの地へ氷川神社が遷宮され、今日に至っている。

●御祭神
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
大己貴命 (おおなむぢのみこと)

●起源
創立の起源は、古い書物によると、951(天歴5年武州豊島郡人次ヶ原(俗称・古呂故ヶ岡、赤坂4丁目一ツ木台地)に祀られた。
これよりおよそ百年後の1066(治歴2)年、関東に大旱魃が発生、降雨を祈るとその霊験(しるし)があり、以来よく祭事が行われた。
江戸時代、幕府の尊信は篤く、八代将軍 徳川吉宗公が1716(享保元)年将軍職を継ぐに至り、1729(享保14)年に老中岡崎城主水野忠之に命じ、現在地(豊島郡赤坂今井台)に現社殿を造営、1730(享保15)年4月26日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、28日に将軍直々の御参拝があった。
以後十四代家茂公まで歴代の朱印状(港区文化財)を下附され、一層の御神徳を高め、開運・厄除・良縁の鎮守神として尊崇を深められた。

●「江戸名所記」より
むかし人王62代村上天皇の御宇天暦年中に近江国甲賀の郡に蓮林僧正として天台四明の法灯をかかげて一念三千の観行をこらす上人あり、東国修行のついでこの所に一夜をあかしける、その夜の夢にいづくともしらず老翁1人来りていわく、我はこの土中にうづもれて久しく年をつもれるものなり、いそぎ掘出して安置せしめばこの所の守護神となるべし、その埋もれし所には奇瑞あるべしと見て夢はさめにけり。
上人奇異のおもひをなしそのあたりをめぐるに一所の壇上に金色の光りあり、いそぎほりてみれば十一面観音の形像おわします。やがてそのところに社をたてて安置せしめらる、一木村の観音と名づけて諸人まいりつどう。きわめて利やくおおし。
蓮林遷化の後治暦2年ひのえ午にあたって関八州のうち夏より秋にいたり大にひでりす。万民うれえをいたしけるに、当所の土民このやしろに雨をいのるに、たちまちに洪雨ふりくだって五こくゆたかにみのり民よろこびのまゆをひらきけり、これ雨をくだして川をなし万民をたすけ賜る、故にすなわち神とあがめ、氷川の明神と名付けたてまつる。神事は6月15日や、今に及びなおこの神徳たかくおわしまして諸人の願望をかなえ賜うぞ有がたき。
くみてしる 氷川の宮の 神こころ めぐみあらたに世をうるうとは(江戸鹿子)

●各地にある「氷川神社」
神社本庁のデータによると、「氷川」の名の付く神社は全国で261社あり、内訳は―埼玉県に162社、東京都に68社、福井県に12社、福島県に5社、茨城県・栃木県・神奈川県・山梨県・島根県にそれぞれ2社、北海道・千葉県・長崎県・鹿児島県にそれぞれ1社となっており、関東を中心に鎮座、荒川流域に多く分布している。
氷川神社の本社は埼玉県の大宮に鎮座する旧官幣大社・武蔵国一ノ宮の氷川神社で、ここから御霊(みたま)を分け(ご分霊)、各地に氷川神社が祀られた。そのため原則どこの氷川神社もご祭神は同じである。
出雲の氏族であった武蔵氏が武蔵国造(くにのみやつこ)となって移住した時期、氷川の信仰が広く祀られたといわれている。「氷川」の名は、出雲の簸川(ひかわ・現在の斐伊川)の名に因むものといわれ、農業用水として大きな恩恵を受ける一方、水害にも悩まされた荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたと考えられる。
河川に沿って分布している関東の神社としては、他に香取神社・久伊豆神社がある。それぞれ元荒川・利根川という大河川に沿って、お互いに境界を侵すことなく祀られている。氷川神社が祀られた村々はその成立が比較的古く、多くは関東ローム層の丘陵地帯に位置し、森林を開墾し谷の湿地を水田とした農村であり、久伊豆神社は元荒川、香取神社は利根川に沿って分布するが、この地域は10世紀以降開拓された米作地帯で、度々洪水にみまわれた低湿地であると推定されているようである。

●「江戸七氷川」について
江戸府中の旧事及び江戸の古跡などを記した『望海毎談』(著者不明。成稿は元文(1736~41年)から明和(1764~72年)の間といわれている)という書物に、以下のような記事がある。

望海毎談に云、氷川明神、江戸の中に七所有、赤坂御門外の社、江戸にては年久し、元大宮の近くに小呂子と云所、氷川を祀りたりし社なり、此所より遷したる所なれば、赤坂の宮居を小呂子の宮と呼びたるを、誤て小六の宮といふ、素盞男尊根の國に追せられ、手摩乳足摩乳が家に入給ふ所を、日の川上といふ所なれば、日の川上といふ詞を以て氷川と呼で素盞男尊を祭りたる神なり、大貴己命は素盞男の御子なりと申より此神は此地神の祖なるを以て、氷川の神靈には相共に祠る、世人大貴己命計を祠り申と覚へたり、(―中略―) 此外今井の盛徳寺の内の氷川の社、麻布一本松の市中の社、羽根田村にて新堀近き所の社、下渋谷にて羽根田の屋敷の社、又北の方にては上水のはたなる萬年寺山の社、巣鴨の入口なる氷川の社頭は坂より上へ見上ぐる所にして、いとかうかうしく何も氏子多く賑ふなり

※赤坂御門外・・・当神社遷座前のお社のことである。
※今井の盛徳寺・・・元氷川坂(現:本氷川坂)の盛徳寺(現:神奈川県伊勢原市)の敷地内にあり、当神社に勧請された。
※麻布一本松・・・現在の麻布氷川神社のことです。938(天慶5)年源経基東征の時、麻布一本松付近に勧請した。文明年間太田道灌ともいわれいる。1659(万治2)年、芝増上寺の隠居地になるに伴い、現在地に遷座した。麻布の総鎮守のお社である。
※下渋谷・・・現在の渋谷氷川神社のことである。明治22年以前、渋谷村は上渋谷・中渋谷・下渋谷に分かれていた。慶長10年に記された「氷川大明神豊泉寺縁起」によると景行天皇の御代の皇子日本武尊東征の時、当地に素盞鳴尊を勧請したとある。
※巣鴨の入口・・・文京区千石の簸川(ひかわ)神社のことである。もとは小石川植物園の地にあったが、1652(承応元)年に、徳川綱吉の白山御殿が造営されることになり、同じ地にあった白山神社と共に移転した。簸川神社が現在地に移ったのは1699(元禄12)年である。

・東京都港区赤坂6-10-12
公式ホームページ

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